酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第一回

第一回『“関羽の死”という終焉』

最初に突き当たる『終焉』

多くの三国志ファンにとって、関羽の死というのは最初に突き当たる『終焉』である。
確かに董卓、呂布、袁紹、孫策などそれ以前にも三国志の世界の中で散っていった英雄たちは数多い。

だが、彼らの死は一方では曹操や劉備、孫権といった三国志のメインを張る英雄たちの活躍するきっかけであったり、あるいは輝かしい彼らにとっての勝利の結果であったりするという側面がある。

そう、彼らの死は三国志の世界を一つの物語としてみた場合ドラマチックであり物語のクライマックスとはなっていても、決してエンディングを感じさせるようなものではない。
『三国志演義』を初めとして吉川英治の小説、横山光輝の漫画などなどあらゆる三国志を扱ったメディアに接してみても『関羽の死』における喪失感や悲壮感は別格と言っても良い。

それは、歴史的な存在感では当代随一であった曹操の死よりも、多くの三国志を扱った物語が終幕としている諸葛亮の死よりも格別だ。
日本における多くの三国志ファンにとってバイブル的存在である横山光輝の『三国志』では、42巻において関羽は死を遂げる。

この巻のタイトルは『曹操の死』なのだが、横山光輝『三国志』は劉備たちを中心に描いてきたので、当然のことながら内容のクライマックスも関羽の死が中心である。

しかし、タイトルは『曹操の死』。確かに歴史的な意義からすれば曹操の偉大さや存在感は語るまでもないが、先入観なしに読んだときに、「なんで『関羽の死』ではなくて、『曹操の死』なんだ!」と釈然としなかった読者も多かったと聞く。

このあたり一連の関羽が斬られるまでの展開は、さすがは戦後漫画史を代表する大ベテランの力量を存分に見せつけてくれる素晴らしい演出振りというしかなく、今読んでも全く色褪せずハラハラドキドキさせてくれる素晴らしい『漫画作品』である。
樊城攻めで于禁とホウ悳を捕らえて、これでもう関羽も蜀も大勝利だろう! と読者をワクワクさせておきながら、畳み掛けるように呂蒙と陸遜の策謀で荊州が占領され傅士仁、麋芳たちが裏切り、一気に突き落とされる関羽とその配下たち。

その一方で、関羽の危機を救うべく益州の劉備や張飛たちが援軍を集め、上庸の劉邦と孟達に関羽の救援を呼びかける。
リアルタイムで読んでいた時代などは、横山光輝の『三国志』が最初に接した三国志だったという読者が大半である。

そもそも横山光輝『三国志』の42巻が発売されたのは昭和60年3月、西暦でいうと1985年である。当時の日本における三国志を取り巻く状況と言えば、正史三国志の翻訳さえ終わっておらず、この年の12月に光栄の『三國志』の第一作がPC-9801でやっと発売されるといった時代なのだ。

大半の読者が、特に子供たちが「まさか関羽は死なないだろう」と思っていたとしてもおかしくはない。
ここで思うのが、もしかすると42巻の『曹操の死』というサブタイトルは、関羽を軽視したわけではなく「曹操が死ぬのだから、これは関羽が助かるのだろう」とミスリードを誘う演出であったのかもしれない。
ともあれ、横山光輝『三国志』を例に挙げたが、他のどの三国志を扱った作品であっても、関羽の死は三国志の世界を物語としてみた場合、初めて訪れる終幕へのドラマとなっている。

最近ではコーエーテクモの『真・三国無双6』の魏シナリオにおいては完全に関羽がラスボスとして君臨しているという扱いだ。
考えてみると、劉備一筋の忠義一徹の男でありながら関羽の存在感は史実をそのまま辿ってみてさえ華やかである。

劉備の下で「万人の敵」と呼ばれた彼は曹操がさんざんに勧誘したほどの武人だ。実際、曹操軍最大の戦いであった袁紹軍の戦いでは先鋒を受け持った顔良を斬って、ますます曹操に惜しまれている。

また荊州において孫権陣営にとって最大の障壁として立ちはだかっている、それどころか一度は孫権が自分の娘を娶わせようとさえするほどだ。

孫権の家系もそれほど尊貴というわけでもないが、関羽などは先祖さえ明らかでない出自であり、当時が古代儒教社会であったことを考えれば破格の申し入れであったろう。
このように見事なまでに、関羽はその後の魏、呉、蜀と鼎立する三陣営全てに濃厚な存在感を残していることからも、当然のように『三国志演義』において『武神』のような扱いを受けるのも無理はない。

ついでに華雄、文醜などもまとめて倒したことになっており、演義においては呂布さえも凌駕するほどの豪華な大将首ゲッター(クビキラー)っぷりある。まさに英雄豪傑が身一つで敵軍の武将の首を獲り戦況を一変させるという、いわゆる「無双的な」英雄豪傑たちの戦いを象徴する人物が関羽であった。
その関羽の死は、一方で多くの三国志を舞台にした物語の主人公として扱われる劉備陣営の最盛期に完全に重なる。

劉備の必勝戦略

荊州南部と益州を得て、人材も諸葛亮、法正、趙雲、黄忠、馬超と文武ともに充実した劉備陣営は、漢中において夏侯淵を斬り、曹操自ら率いる本隊をも撃退している。

西部において曹操本軍を引き付け、直接中原に乗り出せる荊州北部の南陽盆地から関羽軍が北上する。
演義においては、結果的に関羽が敗北してしまったために、関羽の独断であったかのように描かれているが、ここまでの戦略はおそらくは劉備陣営にとっては必勝の大戦略であったろう。

もちろん長年、曹操と戦い続けてきて、その強さも弱点も知り尽くしている劉備は、一歩間違えれば荊州も益州も失いかねない二正面作戦という賭けに出るにあたって、大いに勝算があったに違いない。
そもそも曹操軍というのはその構造上、きわめて明確な特色がある。
曹操軍の中核は青州兵という「黄巾賊」と言われた宗教組織太平道の残党を吸収したものだ。

つまり、当時の大部分の陣営がそうであったように豪族たちの支配下にあった兵ではなく、曹操個人に直接忠誠を誓っている兵たちであり、曹操はこの強大な直属兵集団を自在に操ることによって天下の八割までも制してきた。
これが曹操軍の強さの理由の一つであったが、一方で曹操本人ではなく別な武将たちに率いられてきた曹操陣営は、曹操への個人的忠誠が士気の要因になっているためか、それほど勝率はよくないのである。

実際、いつも曹操から逃げ回っているように見える劉備だが、率いている軍が曹操本人ではないと知ると、とたんに戦意を漲らせてさんざんに翻弄するといった手際を何度も見せている。
これは演義における劉備陣営びいきかといえばそうでもなく、史実における劉備も同様でどうも曹操以外ならいくらでも勝てると踏んでいた節が見受けられる。

その自負は誤っておらず、この土壇場における漢中攻略戦において、劉備は曹操軍の股肱の武将とも言える夏侯淵を討ち取り、宿願とも言える「曹操本人が率いた曹操軍」をも撃退している。
おそらく劉備はこのとき、「この戦略の最も難しい部分は乗り切った」と手ごたえを感じて得意の絶頂にあったろう。
劉備のこの読みはまったく外れていない。様々な陣営を渡り歩いて生き残ってきた男である、勝利と敗北への嗅覚は誰よりも敏感だ。
劉備にとって誤算であったのが、劉備にとっての「勝利への手応え」が曹操陣営も孫権陣営にも共有されており、裏返しの「危機感」として受け取られていたことにある。

漢中で敗れたとほぼ同時に、荊州の関羽軍が北上して中原を突くという戦略を知った曹操軍は、恐慌状態に陥る。おそらくその危機意識は赤壁で敗北したとき以上のものがあっただろう。
史実においても曹操は荊州の南陽盆地から直接突かれる恐れがある許都―――事実、193年に袁術が南陽から陳留に入り、曹操軍の青州兵のデビューともなった戦いともなった戦いのルートそのままである―――から北部のギョウへと遷都しようとしている。

それだけでなく南陽盆地最大の都市である宛では守将侯音が太守を斬って反乱しており、ギョウでは魏諷という男が民衆を扇動して反乱を起こしている。

むしろ、戦線の整理という意味合いが強かった赤壁の敗北時よりも、急激に膨張した曹操陣営のほつれが垣間見えてしまったあたり、演義や小説などの描写以上に史実の曹操陣営は動揺していたことがわかる。

曹操の逆転

ここで司馬懿が孫権陣営に目をつけたのは慧眼であったろう。

そもそも孫権陣営は天下への野心はほとんどなく、むしろ孫堅が董卓の乱当時に荊州南部を制圧して以来、一貫して荊州に執着してきていた。

ゆえに常に荊州の劉備陣営とは領土問題で争い続けており、この時期の孫堅陣営は曹操陣営よりも劉備陣営を憎むこと甚だしかった。
もし、曹操陣営が荊州を諦め、その領有権を認めるならば、孫権陣営は喜んで曹操陣営に味方し関羽の背後を突くだろうと看破した司馬懿は、曹操に孫権との連携を説く。
これは後世から見ると実に大きなターニングポイントではなかったろうか?
荊州を孫権陣営に譲るということは、たとえ形の上でも孫権が曹操に臣従するとはいっても、やはり「曹氏の天下」というものを諦めることになる。

少なくとももはや晩年の曹操の存命時には叶わないことが、ほぼ確定するのだ。このとき曹操が孫権と手を結んだことを決断したのは、もちろん曹操陣営がそれほどの危機であったことを示すと同時に、曹操自身が「三国鼎立」という状況を心の中で飲み込んだということにほかならない。
結果から言えば、そうなった。
荊州の支配権と引き換えに曹操と手を結んだ孫権は、呂蒙と陸遜に命じて関羽の背後を突かせる。曹操軍が派遣した于禁やホウ悳を捕らえて、その武威を示したものの、肝心の樊城は魏が誇る曹仁と満寵の堅忍不抜コンビよく守って落ちず、呂蒙と陸遜によって荊州南部は次々と巻せくし、傅士仁や麋芳たちが離反したために関羽軍は崩壊し、ついに関羽は麦城にて捕らえられ、斬られてしまう。
この時点で、得意の絶頂にあった劉備陣営の戦略は完全に破綻し、もはや曹操陣営を打ち破るどころか、荊州を失い陣営そのもの崩壊の危機に陥るのである。

地理的にも四川の奥地に引きこもるならともかく、天下に望むには荊州は必須の地である。その上、劉備の配下の主だった将兵は荊州を故郷としているために、その動揺たるや思うべし。
あまりにも短い劉備陣営の全盛期であり、あまりに落差の大きい国家存続の危機であった。
一方で大きな喪失感と絶望を味わったのは劉備陣営ばかりではなかった。
正史『三国志』によれば、220年正月に関羽は斬られ、その首が曹操の下に贈られてきたという。

そしてその月の二十三日に曹操が病没したと記されていることから、曹操はかつて配下にしようと焦がれた関羽の首と対面して間もなく没したと言ってもいい。
ある意味、曹操は天下を諦めるのと引き換えに関羽の首を得て、そのまま没したとも言える。
その後ほどなくして、劉家陣営、曹家陣営、孫家陣営はそれぞれ帝位を名乗っていわゆる『三国鼎立』の時代が訪れるが、関羽が北上してから、敗北し首を斬られるまでの一連の情勢は、『三国志』全体を通じてももっともメリハリに富んだターニングポイントであり、劉備陣営、曹操陣営、孫権陣営のいずれもが一歩判断を間違えれば崩壊するという危うさを持っていた。

歴史の分岐点に君臨していた男関羽

一連の国家情勢における中心人物は間違いなく関羽であり、劉備はその武威を戦略の中心に置き、曹操にとっては最大の天敵であり、孫権にとっては孫家三代の悲願を遂げるための目標であった。

ある意味、ここまで一人の人物の動きによって歴史がダイナミックに展開するという状況は『三国志』を歴史として見ても物語としてもそうそうある状況ではない。

関羽という人物が古代的な価値観で神格化されたのも無理はない、「呂蒙や曹操が呪いで死んだ」という呪術的な解釈よりも、その存在感にそのものが歴史のターニングポイントとなったというまさに「神がかった存在だったから」関羽はその後神格化していったのではないだろうか?
華やかに『無双のごとく』武勇によって戦況を変えていく関羽のような「一騎当千」どころか「万人の敵」が、政治上の駆け引きによって無残に敗退し、首を斬られてしまったというあたりに、後漢の衰退から続いた「英雄豪傑の伝説」から「政治と軍事の歴史」への変わっていったと当時の人々は漠然と実感していたに違いない。
そして関羽の死をクライマックスとして渾身の筆を振るって描いてきた作家たちによって、現代の人々も「最初の終焉」としてその思いを共有するのである。
三国志において「関羽」とはそういった存在なのである。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク