酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第二十一回 呂蒙

『刮目阿蒙~進歩する、飛躍しない男 呂蒙~』

貧する少年の第一歩

山越討伐に出征した孫策の部将鄧当は、背後にこっそりと身を隠すように付いてくる者がいたので、不審に思い振り返って声をかけた。
見れば年端ののいかぬまだ14か5の少年ではないか。
少年の名は呂蒙といった。そういえば最近、屋敷に身を寄せてきた妻の弟がそういう名前であった。

こんな子供を戦場に連れていくわけにはいかないし、怪我でもされては妻になんと言われるかわからない。

追い返そうとする鄧当の言葉を少年はガンとして聞こうとしなかった。
仕方なく少年を山越討伐に連れて行ったが、そのことは少年の母の知るところとなる。

無事、戦場から戻ってきて少し自慢気な呂蒙に、母親はむしろなじるように、なぜそんな危険なことをするのか? と問うと少年は答えた。
「貧しく卑しい境遇にいつまでも留まっていてどうなるって言うんだ。戦場にいれば、手柄を立てて富貴を望むことだってできるかもしれない。昔から『虎穴に入らずんば虎子を得ず』って言うじゃないか!」
必死の面持ちで全身で主張する少年に、母親は哀れみと彼を豊かに育ててやれなかった自分の不甲斐なさを思い、それ以上、何も言うことはなかった。
こうして呂蒙は少年の身でから軍人を目指し、鄧当の軍に入ることになる。

その後、年端の行かぬ彼を「こんなガキ連れてきてどうするんだ、虎に肉をやるようなものじゃないか」と馬鹿にしてきた役人を、たちまち刀を抜いて殺害するなど気性の激しさを早くも発揮する。

彼は役人を殺した罪で追われるが、校尉の袁雄が弁護してくれることとなり役所に出頭する。

孫策と出会った少年

その噂を聞いた鄧当の盟主である孫策は呂蒙を引き取り引見し、彼の非凡さを見て取ると近侍にしてくれた。

どうやら将来有望な少年であると思ってくれたらしい。
鄧当が死亡すると、張昭が鄧当の軍を継がせるのは呂蒙がよいと推薦してくれたので、彼は鄧当の部曲を率いることとなり別部司馬(主力軍とは別部、つまりだいたい各私兵たちの部曲の指揮官といった役職)に任じられる。
その後、孫策が暗殺され、孫権が跡を継ぐ。

彼は孫家陣営の軍事力を整理するために各部曲の練兵を視察し、使い物にならない部曲を優秀な指揮官の下に再編成するという措置を取る。
この話を聞いた呂蒙は、急いで商人に料金後払いで赤い軍装と脚絆を買い集め兵たちに装備させたのである。
そして、兵士たちを孫権が視察する日。呂蒙の部曲は訓練も行き届いていたが、それ以上に真っ赤に統一された呂蒙隊の装備は周囲からも派手に目立った。

いかにも精鋭部隊らしく孫権の目に映ったらしい。

戦場においては敵軍を威圧する装備の効果は非常に大きい。

それをわかっていた呂蒙と、借金してまで装備を統一させるという機転の回りぶりと思い切りの良さを孫権は大いに気に入ったのだろう。

呂蒙の部曲は大いに増員され、呂蒙は孫権陣営での地歩を固めていくのである。

呂蒙という男

この呂蒙という人物を見ると、どうも早くから父を亡くして母親とともに困窮していたようだ。

そのため行動の各所に強烈な出世欲が見え隠れする。

少年の身ながら軍に身を投じ「手柄を立てて富貴を望みたい」と母親に訴え、出世の糸口と見るや借金も厭わず軍装を揃えさせる。

現実的と言えばこれほど現実的な「立身出世したい」と『志』を持ち史書に表現されている人物も、基本的に儒教的価値観が支配していた時代をに書かれた『三国志』という史書の中には珍しい。

ただ、その出世欲については、一つには自分一心の欲望ではなかっただろう。
呂蒙という人物のパーソナリティの重要な力点を占める存在に母親がいる。

呂蒙は後々まで母親を大切にしており、甘寧と料理人の件で喧嘩したときも、後に魯粛と親しくなるときも、必ず友人となった人物を母親に引きあわせている。

彼にとっては母親はもっとも大切な存在であり、おそらく貧窮していた子供時代に苦労している母親の姿を見て、母に楽をさせたいと考えていたのが「手柄を立てて富貴を望みたい」という動機であったのだろう。

孫権の配下として

さて、孫権の配下として呂蒙は、まず孫家の宿敵黄祖討伐の折りに、その先鋒である陳就を撃破し首を挙げている。

さらに赤壁の戦い後の荊州攻略戦においては、曹仁軍に包囲されてしまった甘寧を救い出すなど前線指揮官として大いに活躍している。

このとき面白い働きとしては、「退路に障害物を築いておけば、敵は馬を置き捨てて逃げるだろうから、重要な高価な軍需物資である馬を手に入れられる」と300人の兵を割いて、曹仁軍の馬を奪っている。

ちなみに甘寧救出戦は、救出軍が離れている間に本隊が壊滅する恐れもある作戦であり、また攻撃を一刻を争う。

だが、きっちりと作戦の成功を見極めて抜け目なく戦利品を増やすための工夫を凝らすあたりに呂蒙の機転の利き方と冷静さがうかがえる。
呂蒙という人物の特徴はこのような頭の回転の良さと、出世欲との裏返しによる人間心理に対する洞察力の深さである。

出世欲というとしばしば創作物では「イヤな奴」として描かれるが、本当の意味で出世していく人間は同僚や部下たちへの配慮も抜け目がなく、周囲から「あの人が偉くなるのは当然だ」とむしろ出世を喜ばれてしまうような人物である。
呂蒙にもそういう部分があったに違いない。

呂蒙という男の情と計算

赤壁の戦いの後、益州から襲粛という人物が帰順してくるが、こういう新参の軍勢は多くの場合、古参との軍事力のバランス調整のために手勢を削られる措置が取られることが多いようだ。

この時も周瑜が孫権に襲粛の軍勢を割いて呂蒙の軍勢を増やしてやるべきだ、と上表している。

だが、呂蒙はその措置を固辞し「我軍の教化を慕ってきた軍にそのような扱いをしては、これから帰順してくる人間もためらうでしょう。襲粛は胆力のある人物で、これからも役にたってくれるでしょうから、むしろ軍勢は増やしてやるべきです」と返答している。
後に似たような事例として、成当、宋定、徐顧という部将が相次いで死亡した時。 孫権はその子弟が幼いので駐屯地の近い呂蒙軍にまとめて併合してしまおうとすると、呂蒙はまたも固辞し、逆に子弟たちに良い教師をつけて教育してやったという。
このように呂蒙は自らの富貴と出世を望んではいたが、それと引換に周囲と軋轢を残すことを好まなかった。

これには呂蒙が貧しい家の出で腕一本で出世してきた叩き上げの人物であり、家そのものを背景にできないため、周囲の豪族出身の部将たちと軋轢を起こせば、ひとたまりもないという現実的な事情もあったのだろう。

特に江東江南の名士や豪族たちの寄り合い所帯と言ってもよい孫家陣営はその傾向が強い。
このように根本的な頭の良さと周囲への配慮ができる呂蒙を孫権は余程かわいがっていたようだ。

有名な「呉下の阿蒙」のエピソードにおいて孫権は、呂蒙と蒋欽に学問の大切さを説いている。

当時の学問は上流階級の人物と会話するための基礎教養であり、なによりも各種軍事や政治関係の書類を裁可するために必須となる技術なのだ。

なにしろ今も残る上奏文などを読めば、とかく古代の人物や故事の例えが事あるごとに頻出しているのがわかる。

このため、それらの意味を理解できないと解読不能になってしまうという代物だ。

より多く兵士を率いさせ、大きな権限を与えるためにはぜひとも呂蒙にそれらの技術を身につけさせたかったに違いない。
この有名な「呉下の阿蒙」のエピソードは単なる「教養のない男が、学問をして生まれ変わった」という自己啓発的な意味だけではない。

もっと現実的に「これ以上出世したければ、必要な技術は身に着けておけ」という、一大文書国家である古代中国社会の仕組みを読み取る事ができるエピソードである。

孫権の勧めにより学問を修めさらに大きな権限を与えられるようになった呂蒙は、持ち前の周囲への配慮と目先の欲望に取らわない人間心理への洞察力を、そのまま敵に対して適用する。

呂蒙の戦略眼

呂蒙は実に身も蓋もなく人間心理を利用してのける戦略家として覚醒する。
劉備と荊州の領有権をめぐって孫権が対立した折り、呂蒙は孫権に命じられ零陵、長沙、桂陽の三郡を奪取するよう命じられる。

呂蒙が三郡の太守に降伏するよう文書を回すと、長沙と桂陽の太守はただちに降伏したが、零陵の太守郭普だけは帰順しなかった。

そこで呂蒙は郭普の友人である鄧玄之を派遣して郭普を降伏させるよう説得させた。
実はこの時劉備は自ら益州から公安まで出陣しており、関羽もまた南下して南荊州三郡の救出に向かっている時期であった。

しかし、呂蒙は鄧玄之に「劉備は益州で夏侯淵に包囲され動けず、関羽は北荊州で孫権軍と対陣していて救援になど来れない」と絶望感を煽らせるよう命じたのである。

郭普は先に二郡が降伏してしまっていることもあり、迫り来る呂蒙軍に対抗するのも救援なしには無理だと悟り、降伏する。

そして、降伏して見れば劉備は公安まで来ており、さらに関羽も三郡を率いて南下していることを知って愕然としたという。
このあたりの人間心理の洞察力は後の関羽との戦いでも発揮される。

魯粛が病死した後、陸口に赴任し劉備陣営の全権担当とも言うべき地位を引き継いだ呂蒙は関羽に対して手厚く対応し、関羽との友好関係を深めている。

だが、魯粛が劉備や関羽を利用して曹操を対抗させようという戦略方針であったのに対し、呂蒙は関羽を退けて少なくとも荊州は全面的に孫家陣営が領有すべきであるという戦略方針の持ち主であった。

だが、その本心をひた隠しにして、まずは関羽と友好関係を築いている。

すでに呂蒙の心理戦はこの時点で始まっていたのだ。
そして、関羽が北上して曹操軍を攻撃したと聞いた時、呂蒙は関羽が自分を警戒して守備兵を残していると見て、わざと病を装って孫権のいる建業に帰還するという露檄(封印していない伝令文)を発する。

これの情報を得た関羽は、以前から自分に好意的だった呂蒙がまさかこんなあからさまに自分を謀るとは思っていなかったのだろう。

陸口の呂蒙軍に備えた守備兵をも北上させて樊城で根強く抵抗する曹仁軍に向かわせたのである。
さらに関羽は呂蒙の好意に甘えていたと思わせる行動を取る。

曹仁の救援に向かった于禁が降伏すると、その軍兵を養う兵糧が足りなくなってしまったのだが、関羽は当たり前のように孫家に所属する国境の関所から兵糧を拝借してしまうのである。

関羽にしてみれば、あとで事後承諾の形で勝利後に返してやれば済むと思っていたのだろう。
だが、この「関羽による兵糧の略奪行為」は孫権に関羽攻撃の口実を与えることになった。
病であったはずの呂蒙はたちまち用意していた船に兵士たちを載せ、北荊州に進撃する。

関羽が用意していた哨戒網は、商人に扮装していた呂蒙軍の兵士たちが番所の関羽軍の兵士たちを捕縛してしまい、無力化する。

このため関羽の本拠地である南郡を守っていた士仁と麋芳はなんの前触れもなく呂蒙軍が迫っている事を知らされてしまうのである。

そして、呂蒙は直ちに攻撃を仕掛けずに士仁と麋芳に降伏を呼びかけるのである。
呂蒙は部下には優しいが同格、あるいは目上の者には手厳しい態度を取る関羽が、同僚の部将たちと不和があったのを知っていた。

特に南郡守備の主将とも言える麋芳は、徐州の名家である麋家の出身であり、劉備が徐州を領有していた時期はその支援をしてやっていたという人物である。

麋芳にしてみれば関羽どころか劉備ですら同格に近い気持ちであったろう。

そんな彼は常々関羽に対して大いに悪感情を抱いていたに違いない。
呂蒙はこうした関羽軍の部将たちの心理的状況を熟知し「降伏しても仕方がない、むしろ兵士や民衆たちを守るためだ」という言い訳が出来る状況を、細心の注意を払って作ってやったのである。

そして、その目論見は完全に成功し、麋芳と士仁は降伏する。
南郡を占領してからも呂蒙の心理戦は続く。彼は南郡を占領しても、兵士たちに絶対に略奪をしてはならないと命じ、同郷の汝南出身の旗本の兵士が民の笠を奪ったというだけで死刑に処している。

恐らくは、もっとも効果的に犠牲の少ない形で見せしめを行うには、「同郷の旗本の兵士」はもっとも適していたのだろう。

それを美談とするために涙を流しながら斬刑に処するぐらい、彼にはお手の物である。
その後も呂蒙は、老人たち(中国社会ではもっとも発言権のある者たちだ)には側近を見舞わせ、病気の者がいれば医薬品を配布してやり、窮乏する者には衣服や食料を与えるなどをして、むしろやり過ぎなほど手厚く南郡の士民たちの心を掴んでいく。
南郡を奪われた関羽は、なおも呂蒙と友好関係を信じて使者を派遣してくると、呂蒙はその使者を手厚くもてなし、城内や家々を隠すことなく見回らせた。
使者が帰還すれば、どうしても関羽軍の将兵たちは使者に家族たちがどうなっているかと質問責めになるのは自然な成り行きである。

これで家族たちが殺されたり、困窮していると聞けば敵愾心が沸こうものだが、前述したとおり南郡は呂蒙軍の徹底的な慰撫工作により一時的ではあるがユートピアとも言える状態になっている。

これでは敵愾心など沸くはずもなく、関羽軍の将兵は完全に戦意を喪失。逃亡する兵士が続出することとなり、もはや継戦能力を完全に失われるのであった。
もちろんこれらの関羽軍の戦意失墜も呂蒙の仕掛けた心理戦の最後の仕上げであることは言うまでもない。

貧窮していた経験を持っている彼は、占領地の士民や敵兵士たちがどのように考えるかも洞察しきっていた。
かくして呂蒙はほとんど一戦もせずに長い間、孫家陣営にとって大敵となっていった関羽軍を完全に壊滅させ、戦う気力を失わせたのである。

ここまで見事な心理戦は戦史上にも中々見受けられないケースである。まさに「心を攻める」戦いのお手本とも言うべきものであっただろう。

これもまた貧窮からの叩き上げであり、上から下々までの多くの人間関係を築くことで出世した呂蒙の深い人間心理の洞察力の精華と言える。

『周瑜魯粛呂蒙伝』の最後に孫権が陸遜との対話の中で周瑜、魯粛、呂蒙の人物を比較した文が残されている。
「学問によって自分を磨き、優れた企図や計略を考えるにおいては公瑾(周瑜)に次ぐ。だが、その申し述べる見解は壮大さと鋭敏さが欠けていた。また関羽を捕らえようとして、現実的な謀を巡らすことでは子敬(魯粛)に勝った」
この全文については孫権はまさに「ワシが育てた」呂蒙を三人の中で愛していたことを思わせ、逆に魯粛についてはいろいろと根に持ったような言い方をしていて面白い。

この呂蒙という人物の決して気宇壮大な企画は立てず、常に目の前の現実的な勝利を目指す志向を孫権も理解し、評価していたというのがよく分かる文である。

母のために出世を目指し、戦功を重ね周囲に気を配り、必要とあれば成人してからの学問も努力する。

常に『進歩』を続けるが、決して現実から遊離した『飛躍』を自分にも他人にも求めない、現実と人間心理の洞察力に優れた武将。
それが呂蒙という人物であり、孫権にとってはもっとも信頼していた男でもあったのだ。

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