小説版 天井桟敷で逢いましょう第二話

第2話 演芸館での初日

「ぬをっ!?」
目が覚めても真っ暗闇のままで、目を開けた事がわからないというのは、想像以上に焦るものらしかった。
いったい何が起きたのか、覚醒しきっていない脳に直接来る混乱だった。
そんな驚きで、無理矢理頭がはっきりさせられて、ようやく状況を把握する。
そうだ、昨日は思い出しきれないほどにいろいろと紆余曲折があった末に、この月追演芸館という所に身を置く事になって、空いていた地下倉庫が割り当てられたのだっけ。
手探りで枕元に置いておいた筈の電池式の卓上ライトを探り当て、スイッチを入れる。
ようやく、まったく光源の存在せぬまま暗闇を溜め込んでいた倉庫に灯りが灯った。
「ふう……」
舞台の下にあるだけに、広さだけはかなりある倉庫を、ほのかな灯りが燈るのは風情があると言えばあるが、なんとも朝には相応しくない雰囲気なのは確かなようだ。
本来ならどこからか持ってきた卓上ライトだけが光源なわけがない。もちろん、倉庫のための明かりは存在するのだが、スイッチが寝床から大分遠くにある……、というか地下にあるこの倉庫から梯子を上って入口を開けて、廊下に出た所にあるわけだ。
確かに倉庫という用途から考えれば、電源はそこにあったほうが都合がよいのは理解できる。とはいえ、寝る前に消しに行けば、その間に目が覚めてしまうというものだ。
そんなわけで、こんな心許ない灯りのみを頼りに寝たのであった。
……ここに長居するのであれば、まず光源をなんとかせんとなー。
ライトの横に置いておいた腕時計を、バックライトを点けて確かめる。
午前5時。
いつもジジイに叩き起こされていた時間だというのが、我ながら微笑ましかった。
毛布から出した手が、けっこう冷える。
灯りとともに暖房も必要かもしれん。
自慢ではないが、寝起きは悪いほうではない。
手早く着替えて、倉庫を出る。
卓上ライトがないと真っ暗闇になるので、それを持ち歩きながら外まで出るのは、かなり間抜けた感じだ。懐中電灯なりカンテラなりも必要か。
昨日まで泊まっていたホテルに備え付けてあったタオルと洗顔セットを持って地下から這い出す俺。
晴れていたらしく、いきなり朝日が目に染みる。
すっかり地下生物の気分だ。
さて洗面所はどこだ?
あ、そうか……。
俺は楽屋へ向かった。

この季節、この時間だと、まだ朝靄が軽く漂うようだ。ことに演芸ホールに中庭や周囲に緑が多いので、湿度も高いのだろう。
朝一番に外へ出て、ちょっとした運動をするのは日課になっており、つい外に出てしまったのだが、先客がいた。
ジャージにタンクトップ、髪はまだ整えていなのかタオルを巻いて留めてあった。そんな色気のない姿をした朱里がいた。
気合とともに長い棒を振るっている。
薙ぎ、払い、突き、返し、などなど一連の動作すべてが流れるようで、誰の目にも彼女が相当な手練れだとわかる。昨日、樟里が言っていた「下手すれば殺人になる」というのも、軽く振るっているように見えながら一々鋭い動きを見ていれば、あながち大袈裟ではなかったのだと理解できる。
「誰?」
その一連の動作に組み込まれるように、朱里は俺の方を向いて棒を突きつけた。
「あー、邪魔したかな?」
「ふーん、けっこう朝早いんだ」
それだけを確認すると、まるで何事もなかったように、彼女は型の反復を再開する。
「薙刀のように見えるけど、槍術のような動きもあるな」
「わかるの?」
動きを止めないまま彼女は続ける。
なんとなく、というより自分的にも日課ではあるので、俺も軽く準備体操を始める。
「体鍛えろとジジイに言われてな、剣道はやってた」
「一応、全部、かな」
「全部?」
「そ、流派の全部。剣術もやってるから木刀もあるよ。立ち会ってみる?」
ちょっとだけ嬉しそうに彼女は言った。
自慢じゃないが、俺の剣術なんて素人の手習いの域を出ないものだ。週に一回か二回ぐらいどっかの師範が来て手ほどきしてもらったぐらいで、あとは体力作りのために素振りを毎朝やっている程度である。
「無理。とてもじゃないけど、他人と立ち会えるほどの腕じゃない」
そう答えると、彼女はどう理解したのか「そっか」と言って、それ以上は追求してこなかった。
「いや、けど、素振りぐらいはしときたいな。木刀は貸してもらえるか?」
「いーよ、ほら」
と、一端、動きを留めて彼女は無造作に落ちている木刀を拾い上げて、俺に投げた。
それを受け取って、構えて、振る。構えて、振る。
あとはその繰り返しだ。
さんざん師範に素振りの仕方だけはうるさく仕込まれている、「腕よりも間接を使って大地の重さを伝える感じ」と言われているが、正確な意味はわからない。ただ、両足の裏が掴んでいる地面を下半身の間接と重心を使って蹴り込んで、それで生じた力を剣に伝えるようにすると、ただ力任せに振るよりも威力が出るような気がするのは確かだった。それに、こうして剣を振るうと、それだけでなかなかよい全身運動になるので、身体を鍛えるにはちょうどよいんだろうとは思う。
「へえ」
どういう意味かはわからんが、隣から感嘆符がついたような声がした気がする。
一応、毎朝、目覚め代わりに素振り200回がノルマであった。
とりあえず、集中する事にしよう。

「……190、191、192、193」
いつのまにか声に出して数えていた。
「……196、197、198、199」
ラスト1でノルマ達成と、ちょっとした達成感とともに最後の素振りを振るおうとした途端だった。
す、と差し出された棒が見えたかと思うと、その棒の先が俺の持っていた木刀にまるで蔦のように絡まって、手になんの衝撃も感じないまま絡みとられてしまった。
「にひゃ……え?」
間抜けた声は俺のもの。
木刀は音も立てずに空を飛んで、やがて何時の間にか練習を終え、ジャージの上を羽織っていた朱里の手に収まっていた。
「あのね、けっこう筋はいいと思うけど。ラスト気が抜けすぎ」
「へ?」
「200で終わりーって、見ていて丸判りだったもの。それじゃ、鍛錬になんないよ」
と彼女は指摘する。
「そ、そうか……」
「ま、おせっかいかと思ったけど。そういうの黙っていられないんで」
そう言って、彼女は手にした木刀と棒を壁に立てかけると、
「じゃあ朝の稽古があるから、これで」
と言って、走り去って行った。
思わず、気を呑まれてしまったまま見送ってしまったが、木刀の取られ方といい、どうやら朱里は俺が思っている以上の使い手なのかもしれない。
首を捻りながら、肩にあった湿ったタオルを取って汗を拭こうとすると、目の前によく乾いたタオルが差し出される。
「つい、口出ししちゃうのは、あの娘の性分なの。大目に見てあげてね」
そんな優しい声をしているのは、確か昨日面識を得た中ではただ一人、樟里……さん(やはり立場的にも年齢的にも、こう呼ぶべきだよなあ)以外になかった。
薄いピンクのパジャマにガウンを羽織っただけの姿は、ちょっとだけ目のやり場に困るような気がする。わりとスタイルがよいことに気づいてしまった。
「いや、それはいいんだけど。ちょっと聞いていいかな?」
「なんですか?」
なんでも答えてくれそうな微笑で彼女は俺を見る。
ただ、なんでも答えてくれそうで、一番のらりくらりとはぐらかしそうな笑顔でもあるように見えるのは、穿ち過ぎだろうか?
「いや、あの朱里って、なんか武道かなんかかなりやってたりする? ただ事じゃない腕に見えるんだが」
「あは」
その問いに樟里さんは、俺が何かとても面白いボケをかましたかのような目をして、笑った。
「かなりどころじゃないですよ。あれでも、えーと、なんとかっていう流派の師範代ですから」
「はー」
ということは、どれぐらいすごい事なのかはよくわからないが、少なくとも思っていたとおり、ただ事ではない腕なのは確かなようだ。その流派の名前を知りたくなったが、この人に聞いても要領を得ないだろう。
「近くの道場に頼まれて稽古を見に行っていますし、姉の贔屓目抜きでかなりの実力だと思います」
目を細めながら誇らしげと嬉しげの混ざった表情で言う。
「なるほどねぇ」
まあ、教える立場をやっているのなら、職務上の習性として人の素振りに口出ししたくなってきたのも無理はない。
「だから、篤さんが変な気起こすような人でなくてよかったです」
「へ?」
「篤さんが滞在されると聞いて、一番警戒していたのがあの娘ですから」
まあ、確かに昨日の今日で信用しろという方が無理な話だろう。
「もし、夜中に私たちの部屋とかに忍び込んだりするような人だったら、『男として生まれてきた事を後悔する』というような事を言ってましたから~」
「……昨日はいろいろありすぎて、そんな事すら考える余裕もなかったよ」
疲れてて良かった……。
「でも、早起きと剣道やってらした事で少し信用する方向に行ってるみたいですねぇ」
「そんなもんかね」
「そんなもんです」
ふわふわとした笑いで、なんとなく納得させられてしまう。
その後、一通り息が整った所という絶妙なタイミングで、俺は樟里さんに演芸館全体のシャッターやカーテン、窓を開けたりする仕事を命じられた。清々しいぐらい有無を言わせない、微笑みとともに。
いつもは朱里の仕事だったようだが、今日から俺の仕事になる模様だ。
ああ、もしかするとわざわざ出かけるのを待ってアドバイスをくれたのは、朱里のちょっとした礼のつもりだったのかもしれない。

中庭からラジオ体操の音楽が流れている。
ようやく起き出してきた津奈美、オリガ、葛川さん、そして近所の早起きなお爺さんやお婆さん数人が、おなじみの音楽に合わせてラジオ体操をしている。
演芸館の朝はけっこう早い。
一応、役者であるところの彼女たちは、朝一番の体操と発声練習と軽いロードワークは欠かさないようにしているとの事だ。一応、それなりの広さのある演芸館の中庭で、彼女たち毎朝やっているラジオ体操に、いつのまにか近所の爺さん婆さんたちが加わるようになってきたため、外の妙な光景が展開されるようになってきたらしい。
(も少し起きるのが遅ければ、俺はあれに加わる事になっていたのだろうか?)
ちょっと胸を撫で下ろす。微笑ましい光景だが、自分には激しく似合わないと思う。
一方、樟里さんは管理人室のキッチンでみんなの朝御飯を作っており、俺はその手伝いをしている。とはいっても俺に料理の心得などはまったくないから、言われるままに食堂を兼ねている楽屋のテーブルを拭いたり、食器を出し入れしたりなどの雑用を、こなしているだけだが。
我ながら意外に従順に手伝っているものだが、さしあたって労を惜しむほどの仕事は持っていないし、新しくできた美人の従姉を手伝うのはそれほど不愉快ではなかった。
「はい、篤さん。これ持って行ってあげて」
時間を見計らったように、樟里さんは緑茶を一杯入れて、寿司屋にあるような大き目の湯飲みを盆に載せて俺に差し出す。
「楽屋に春江さん来てるから」
とりあえず、言われた通りにお茶を持って楽屋に入ると、テーブルの前に丹前を羽織った高坂先生がちんまりと座っていた。
「あ、どうぞ」
「……」
ぼーっと、置かれた湯飲みを見詰めている。
ただ、お茶を差し出した手がいつもと違うのに、ややあって気づいたようで、一度俺の方を見ると、特になんの感慨もなくまた視線を前に戻して、ぼーっとし続けた。その顔は寝起きには見えなかった。
「ああ、春江さんは朝ごはんの後に眠るから」
戻ってきた俺に樟里さんは説明する。どうやら完全に昼夜逆転した生活をしているらしい。
(座敷わらし……)
と小柄な体と丹前姿から連想したビジュアルイメージは口に出さないほうが賢明であろうと思った。
「座敷わらしみたいで悪かったな」
今、俺、口に出したか?
という表情はありありと出ていたらしい。高坂先生は、すっと茶を一啜りしてから答えてくれた。
「その感想は聞き飽きとる」
なるほどね。

みんな一斉に席について、
「いただきまーす」
の斉唱。
朝食である。
演芸館の住み込み人たちの朝食は、夕食のようなバランス・オブ・パワーは存在しない模様である。
樟里さんが旅館で見かけるようなお櫃とアルマイトの鍋から給仕してくれる御飯と味噌汁以外は、一袋の味付け海苔、小鉢に取り分けてある納豆、卵と一人分が厳密に分けられているので競争原理を発揮しようがないという訳だ。
ただ、少しずつ個性が発揮されているのがちょっと面白かった。
朱里は納豆に醤油と生卵を入れて御飯にかけて、海苔を巻きながら食べている。意外と言っては悪いかもしれないが、背筋がきっちり伸びて箸使いが綺麗なのは、武道の心得があるからだろうかと思ったのは、今朝の印象に影響されすぎだろうか。
対照的に高坂先生は背筋を丸めて、いかにも億劫そうにぼそぼそと飯を口に運んでいる。そのままだと他に手をつけないらしいのか、樟里さんが納豆をかき混ぜたり、卵を混ぜたりしてやっている。それを樟里さんが茶碗にかけるとき、一瞬だけ真剣な目になる。その理由は樟里さんの言葉で理解した。
「はいはい、大丈夫ですって。卵を先にかけますから」
高坂先生は生卵も納豆もどちらもかける御飯にかける派らしいが、生卵が先でないと許せない性質らしい。難儀な人だ。
津奈美は納豆を食べないらしく、最初から小鉢に用意されていない。卵かけご飯に海苔をちぎってふりかけて食べていた。その間、ずっと朱里やオリガに話しかけたり、味噌汁をおかわりして落ち着きがない。……お子様だ。
ロシア人留学生らしいオリガの場合、納豆は平気なようだったが、生卵が駄目なようである。ゆで卵にしてもらって食べている。ただ、納豆もかき混ぜずに、いちいち一口ずつ箸に取って、おかずとして食べているのがおかしかった。
葛川さんは一人、我関せずとばかり黙々と食べているあたりは高坂先生に似ている。しかし、一杯目、二杯目を納豆で、三杯目を生卵で、四杯目は椀を御飯で拭くように、五杯目は白米をじっくり味わうように、と大き目の茶碗に五杯の飯を淡々と平らげてしまう様子が見事であった。
樟里さん……は、他の人の給仕や高坂先生や津奈美の世話をしたり、テーブルを拭いたりしている印象ばかり残っている。そしていつの間にか食べ終わっていた。その間、食べている姿の記憶はまったくない。あれ? そう言えば昨夜も、彼女がものを食べている姿を見た記憶がない。

「いってきまーす」
制服に着替えた朱里と津奈美が元気に中庭から出て行く。
そうか、普通の学生たちはこんな時間に通学するんだったっけ。
俺は朝食の後片付けを手伝いながら、彼女たちの登校の様子を見るともなしに眺めている。
朱里は純白のブラウスに胸元の臙脂色のネクタイがアクセントになっている。左胸に校章をデザインしたエンブレム付きの紺のブレザー、チェックのプリーツスカートは今ではセーラー服よりも典型的な高校の制服といったところだ。確か昨日もそこここで見かけたから、地元の高校の制服なのだろう。ブレザーと同じ色のハイソックスに、ちゃんと磨かれた焦茶色のローファーを履いていると、それなりに「いいところの娘さん」に見えない事もない。ただ、あまりに姿勢と動作にキレが良すぎるのが、そんな印象を吹き飛ばす。今日も別に遅刻しそうというわけでもないのに駆け足で出発だ。
「つなーみちゃん、学校いこー」
津奈美にはお友達に誘われてのんびり登校だ。
というより、迎えが来ているのに準備できていないのはどういうことだ? 別に朝食終わって何か用事があるわけでもないのに準備が遅いのが津奈美という娘らしかった。
「あー、ごめんねぇ」
と済まなそうに現れた津奈美の姿にちょっと驚く。
パフスリーブが特徴的なチャコールグレイのワンピースと、それに合わせたシルエットと色のボレロ、ご丁寧にも胸元には大きなリボンタイ、足元には白のニーソックスに漆黒に白のリボンがついている女の子用にアレンジしたオペラパンプスといういでたちだ。とどめに制服と同色に白のストライプと校章の入ったベレー帽を被って出来上がり。
「これは……」
学校生活というものに疎い俺でも知っている煌星女学院の制服ではなかろうか。戦前から続く長い伝統を誇る私立の女学校だった筈だ。だがお約束の少子化で経営が悪化していたのを新しい経営者に変わって小中高一貫教育の伝統をそのままに、設備から制服、警備までを一新して、クソ高い授業料とそれに見合った教育環境を提示する事で経営再建に成功したとかで話題になっていた筈だ。たしか、うちの家も出資か用地の提供かで関わっていたような気がする。
やりすぎとさえ言われる制服ですらも、優越感と羨望の対象となって有名だ。なにしろ、出入りの業者が生徒一人一人に採寸して仕立ててくれるという代物なのだ。この手の制服は既製服だったり安い仕立てであったりすると、目も当てられないものになるものだが、ここの場合御付きの仕立て屋がいちいち各人各様の容姿に合わせてくれるので、どんな娘が着ていても観られるものに文字通り「仕立て上げて」くれるのも人気の秘密だ。
まあ津奈美の場合、性格はともかく容姿は美少女と言ってもいい娘であるし。少し細すぎる思う華奢な体型で、茶髪よりさらに薄い色でともすれば金髪にさえ見える色の髪をおだんごにまとめたこの娘が着ると、まさに「お人形さんのような」外見の出来上がりとなる。もちろん黙ってじっとしていれば、の但し書きをつけての話だ。
が、ちょっと待て。
「あの樟里さん?」
俺は自分の疑問をテーブルを拭いている樟里さんにぶつける。
「あ、はーいなんですか?」
「津奈美……ちゃんの学校って、あの煌星女学院ですか?」
「ええ、そうですけど、それがなにか」
さっきも書いたように煌星女学院と言えば入学するだけでもひと財産、通わせるとなればなんやかやで「娘をもう一人育てるようなもの」と言われるぐらいな学校だ。どこをどう見ても、そんな学校に通わせるような余裕のあるようには見えないのだが。
「いや、あそこっていろいろと……」
と言った所で樟里さんは、自分が俺に津奈美について説明していない部分に思い当たってくれたらしい。
「ああっ、津奈美ちゃんはうちの子じゃなくて、ちゃんとお家があって、そこから通ってるんですよ?」
「え? なんか自分の部屋というか場所というかを、作って棲みついているように見えたんですけど」
「ええ、ほとんどここに住んでるみたいな事になってますけど、ちゃんと週末とかお家に帰ってますし、親御さん方もわかってて受け入れてくださっていますから」
ま、その辺はいろいろあるのかもしれない。
とりあえず今は、それ以上は突っ込まずに納得する事にした。
「ほら、もう遅れちゃうよー」
「わ、ヤバっ」
津奈美とその友達はベレー帽を抑えながら駆け出して、先に出た朱里を追い抜いていった。可愛らしい制服は走る姿に激しくギャップを感じさせるものがあったが、それもまた愛嬌なのかもしれない。
しかし、津奈美足速いな。

「……」
通学組が出て行くと、掃除を申し付けられた。今日は営業日との事で、入場口やその前の道路から舞台まで念入りに、との事だ。
「……」
一緒に、まさに黙々と掃除しているのは来夢、もとい葛川さんだ。
こうして二人きりになってみると、失礼かもしれないが、やはり迫力のある美人だと思う。なにしろ背は高い方の俺よりも背丈があり、ショートカットの髪が中性的な印象を与える。着ている服も飾り気のない白のトレーナーにジーンズ。そんな人が黙々と黙って隣で働いているというのは、ちょっとしたプレッシャーだ。
かといって無愛想というわけでもない。箒で塵とゴミをまとめれば、塵取りを用意して待っていてくれるし、廊下を拭く段階になるとすでに水を入れたバケツが持ってきてあり、雑巾を絞って手渡してくれる。
でも無言なのだ。
機嫌が悪いというわけでもないようだし、あまりにもてきぱきと手際がよいので、こちらとしても黙々と働くしかない。なんか無駄口を叩くのが憚れる雰囲気が自然に作り出されているというわけだ。
「……」
「……」
部屋の掃除ぐらいなら経験はあるが、さすがに演芸館の廊下や舞台、客席やらの掃き掃除、拭き掃除ともなるとかなりの重労働だ。そして手間も時間もかかる。
その間、まったくの無言である。
しかし、慣れてくるとこれが中々悪くなくなってきていた。どこを掃いてどこを拭けばいいのかそれとなく示してくれるし、無言なせいかどうかはわからないがてきぱきとした葛川さんの仕事ぶりはそのまま自分に乗り移ってくるようで、それに身を任せているのが、中々に「悪くない」のである。
「……」
「……」
それで気がついたが、中性的で迫力のある外見とは裏腹に、この人はずいぶんと細やかな気遣いのできる人らしい。こっちは勝手がよくわからないので、思いつくままに拭き掃除や掃き掃除をしていても、決して場所などがかち合うこともないし、重複したりする事もなかったし、逆にこっちが気付かなかった汚れやゴミなどを見つけてはフォローしてくれていた。俺が仕事しやすいのも当然だった。
「……」
「……」
最初は多少あった居心地の悪さもやがてはなくなり、やがては心地良くすらなってきたところで、その無言を打ち破る者が登場。
「ねーねー、ちょっといいカ?」
と、まさに天から響き渡る声。
屈託のない暢気そうな声と少しだけ違和感のあるイントネーション。
見上げると上半身を桟敷席から乗り出しているオリガがいる。どうやら、上の事実上、居住区となっている天井裏と、一応存在している二階席を掃除していたらしい。
「ぃョっ」
俺と葛川さんが自分に目を向けたのを確認したオリガは、ごく当たり前のように、二階席の欄干を飛び越えて一階席に音もなく舞い降りた。あまりに簡単に降りてくれたので、意外に低いのかな? と錯覚させるほどの軽やかな着地だった。
しかし、4~5メートルはあるよな……?
「あんまり静かだったから、てっきり誰もイなくなっちゃったと思っちゃったヨ」
一瞬下着と勘違いしてしまった白いタンクトップが胸を強調しながら、半照明で薄暗い客席を豪奢な金髪で照らすようにこちらに近づきながら彼女はぼやく。
「う……、ごめん」
本当に済まなそうに葛川さんが謝ってしまう。
「あー、ライムは悪くないヨ。男苦手なんだシ、仕方ない。どーやら、そこのサオリの親戚は、かなり仏頂面みたいね」
「……それは無愛想という意味か?」
誘われるように微妙な違いに訂正を入れる俺。
「それそれ! でも、ライムが無口なのはわかるけど、ずーっと何もしゃべらないし。でも昨日はけっこうしゃべっていたよネ? だから、ライムのことが嫌いなんじゃないかと、心配してた、いや、心配してる」
ズバっと単刀直入なオリガの指摘に、ハッとこっちを向くのは葛川さん。
これは説明しておかなくちゃならない事柄だと、葛川さんの表情を見て悟る。
「いや、そうじゃない。元々、愛想はよくないのは確かだし、昨日はいろいろ説明が必要だったからで、むしろこっちが地に近いんだ。決して葛川さんが嫌いだとか、気に入らないとかそういうんじゃない」
「フーン、でも、無口すぎー」
ごもっともと言うしかない。しかし、その理由は少し恥ずかしいかもしれない。
しかし言われたほうも気恥ずかしいものらしく、葛川さんは俯いて顔を隠し気味だ。
「い、いや、あまりにも葛川さんがよく気がついてくれるもんで、つい言葉いらずの感じが心地良すぎたというのもある」
俺のような世間知らずで人付き合いの少ない人間にとって、人をほめるのはそれだけでなんとなく気恥ずかしいものらしかった。
「そうか、ナらいいんだけど……」
なんとか俺の説明に納得していただけたみたいだ。
「確かにライムは便利だもんネー。気に入るのも無理はないけど、でもアげないんだから」
とオリガは俯き加減の葛川さんの頭をふくよかな胸に抱き締めて、こっちにアカンベーをした。
「ちょ、ちょっと、オリガ……」
「んーふふふー。あーライムはかわいいなぁ」
胸の中でもがく葛川さんがさも愛おしそうに、その頭を撫でるオリガ。
その光景に、なんとなく良い物を見たという気分になった。

「おはようございまーす」
「おはようー」
なにはともあれ三人で客席の掃除を一通り終えたころ、入場口から誰か来たようだ。誰かと樟里さんの挨拶が耳に入る。
「あ、ツカサきた」
それに反応したのはオリガだった。彼女は滑るように入場口に出て訪問者をこっちに招く。
「おーい、ツカサー、こっちこっちー」
「なに? こっちは忙しいんだけど」
と言いつつ、ツカツカという擬音が目に見えるように大股の堂々とした早足でこちらにやってくるのは、黒縁眼鏡にオーバーオールとチェックのシャツという格好の女の子だった。
「これ見てー、新入り来たカら紹介するね。ほら、アツシ、挨拶は?」
その女の子は背丈は交差か先生より少し高いぐらいぐらいなので小柄なほうだ。不審げに俺を見上げながら、俺の事を値踏みするように観察してくれる。
「おはようございます」
と俺は一応会釈するが、たぶんニーズに合致した行為ではなかったろう。
「そうじゃないの、自己紹介しなサい」
「ああ、そういうことか。大崎篤、たぶんここの居候する事になっている」
俺の自己紹介を聞いているのか聞いていないのか、そのままスルーしてじっくりと観察を続けてから、彼女は応える。
「なるほど、また樟里さんがどっかから拾ってきたわけ?」
「んー、ちょっと違うケど、しばらく、ここに居座るみたいだかラ、よろしくシてあげて」
「ま、仕事の邪魔にならないなら、私はそれでいいや。私は見城つかさ、この映写と音響の技師をやっている。よろしく」
と彼女は俺に手を差し出した。
それが握手を求めている事に気付くまで三瞬ばかりかかったのは、当初の人を人間として認識していないような態度によるものなので、俺が鈍かったというわけではないと思う。
それに気付いて、その手を握り返すと。ニッと彼女は俺に笑みを返してきた。
「あ、篤さん。さっそくですが、つかささんのお手伝いしてもらえますか? フィルムを運び込んでほしいのですけど」
その様子を見ていたらしい樟里さんがすかさず、俺に用を言いつける。条件反射的にそれに従い入場口から外に出る。すると、外には彼女が乗ってきたらしいライトバンが止まっていた。
「あー、これこれ。これを映写室まで持って行ってくれる?」
俺に追いつくようにして、ライトバンの中から大きな円盤型の缶を何本か俺に手渡す。それほど重いというわけのものでもないが、本数がけっこうあるらしく、確かに男手があったほうがよいとは思った。
「なるほど、これは助かるね」
フィルム缶の束を両手に抱えながら運ぶ俺の後ろからそんな声が聞こえた。
「けっこー便利でしョ?」
正直、道具のように思われている気もしたが、役立たずと言われるよりはいいか。

「ああ、それはここに並べて」
中央に鎮座まします映写機の周囲にその部屋はあった。
表現的におかしい気もするが、二階席のさらに上にある小さな映写室は、まさに映写機を囲むようにして作られたとしか思えないような窮屈な空間で、そのように表現したほうがしっくりくるのだった。映写機のほかにはフィルム棚や音響、照明の制御装置が、なんとかやりくりするように配置され、人一人がやっと活動できるスペースしかない。さらに小物入れだの棚だの小机だのが、壁や天井のそこかしこから繁殖しており、閉塞感に拍車をかけていた。
そんな閉所恐怖症の人が入れば10分で発狂しそうな部屋に入り、彼女は心底くつろいだように息をつき、映写機から始まって各種機器のチェックを始めていた。
「ここは映画も上映するのか?」
見ればわかる事を聞いたのは、話のつかみが欲しかったからだ。
「ん? ああ、まだいたんだ」
「まだいたのかとは、失礼な」
「ああ、ごめん。ついここに居ると自分一人だと決めつけちゃっててねー」
どう考えても許容人数は一人の空間だ、そういう気持ちもわからないでもない。
「ここは劇団だと聞いたが、映画も上映しているのか?」
「んー、そだね。というより普段は映画館として近所からは認知されちゃってるかなー」
演芸館のオーナーとしての使命感が沸いたわけでもないが、一応知っておいたほうがいいと感じたので、俺は問いを重ねる。
「そうなのか? みんなここは劇団だと思い入れがあるみたいなんだが」
「そうなんだけどねー、あはは……」
と、つかさは決まり悪そうに笑う。
「けど、ほら。劇団ってお稽古だのしなきゃならないし、みんな食べていかなくちゃならないしね。それに公演しても黒字になるって事は滅多にないしね」
「まあ、そうだろうな。こんな小さな町で劇団なり小劇場なりが成り立つわけがないとは思っていた」
「みんなバイトしたりして生活費賄ってるけどね……。他に日銭稼ぎとして、こうやって細々と映画を上映したりして、稼動させているわけ。ほら、ちゃんと営業しとかないと税金の方もドカンときちゃうって聞いた事あるしね。」
「それで映画館も兼ねているってわけか」
「そそ、これはずっと昔から、先代さんの頃からずっとそうらしいけどね。けっこう長くやってるから、それなりに配給会社の伝手もあるらしいしね」
ああ、昔の映画が娯楽の中心だった頃だったら、十分に成り立っただろうなとは思う。しかし、シネコン全盛の今ではそれこそ映画の中にしか存在できないような営業形態ではないか。
「それで、客はきてるのか?」
「んー、こんなもん」
と指差した先には、散歩途中らしい老人が行儀の良い犬を連れて座っていた。
……なんとなく、理解したような気がする。
「ま、みんな住み込みだし、他にバイトしてるし、人件費だけはかかってないからねー。私も修行代わりにさせてもらってるし」
ん?
「おい、ちょっと待て。お前、映写技師の資格なかったりするのか?」
その言葉を聞いて、彼女はきょとんと俺を見て、そのあと笑った。
「あはははは」
「……?」
「あー、やっぱり知られてないんだねー。映画の35ミリの映写には資格なんていらないんだよ? というよりそんな資格は今はないしね」
……知らなかった。
「昔はちゃんと“映写技師資格”ってあったから、今も残ってると思っちゃうのは当然だけどね。お父さんが持ってたし」
「なるほど一子相伝か」
「将来的には私も撮る方になりたいからね。いろいろ機材いじらせて貰えるし、わりとヒマな時間も多いので勉強できるし、みんないい人だしね。けっこう気に入ってるよ、この仕事」
と彼女は笑いながら言う。
給料は出るのか? と聞きたくなったが、劇場の様子を見る限りでは聞くだけ野暮のような気がした。
それでも近所の年金で暮らしているようなご老人が常連になっているらしく、午前10時に開場する演芸館には、ぽつりぽつりと客は来ているようだった。一人ひとりに樟里さんが挨拶しながら、もぎりをしている。客同士も挨拶しあってたり、ロビーで雑談したりしていて、のんびりとしたものだ。

雲ひとつない快晴というのは爽快でもあるが、一方で馬鹿にされたような気分にもなるものだ。空を見て青空しかないのは、最初はいいかもしれないが、そのうち見上げる取っ掛かりを失って飽きてくる。どこを見てよいのかわからなくなってくるうちに、「やる気あるのか?」と八つ当たりしたくなってくるのは俺だけなのだろうか?
樟里さんが受付。つかさが映写室に篭りきり。
高坂先生は就寝中。
オリガと葛川さんは裏庭の洗濯機でせっせと洗濯に勤しんでいた。
俺はどれも手伝えそうにないので、ぶらぶらと演芸館の中を見て回っていた。
今まで、ゆっくりとこの建物を探索した事がなかったしな。
演芸館は建物の全体像として『型になっていて、入り口から縦に長く伸びた中に劇場が入っているという形になっている。そして奥で折曲がった区画に、広い楽屋と厨房、簡単なシャワー室と大崎姉妹の部屋である管理人室があり、実質的な居住空間になっている。一見、奇妙な作りかもしれないが、この演芸館に棲む人たちの生活ぶりを見ていると、しっくりくる。
そして『に囲まれるようにして中庭が存在するわけだ。
どうも、この劇場は初めから人が居住できるように設計されていたようだ。珍しい形式だとは思うが、こんな小さな町の古めかしい劇場には相応しいのかもしれない。
外見から見るとこの建物は三階建てとなっているが、それは劇場の構造のせいで、実質的には2階建てだ。二階には二階席が設置されており、居住空間の二階には大道具倉庫など、倉庫になっているが、ここの倉庫のひとつに棲み付いているのが津奈美だ。
正面から見てみよう。
劇場正面には古めかしいボックス式の受付が設置してあり、チケットと?ぎりを兼ねている。そこからロビーに入るとちゃんと男女別になったトイレと二階へ行く階段がある。
ロビーには一応、長椅子が二つほど設置されていてロビーとしての機能を果たせるようになっているが、果たしてそれが必要になるほど客が入る事はあるのだろうか? ロビーにはかつて売店として使われていたらしいカウンターがあるが今は使われていない。一応、自動販売機がひとつだけ設置されているのが、ロビーらしい痕跡と言えるだろう。
劇場は三方向を冂型に廊下で囲まれており、扉は三方向に三つある。ただ、実質正面扉だけ使えれば十分なのが悲しいところだ。
右側の廊下を進めば、右側の劇場入り口があり、その先に「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉とがある。その先に劇場に隣接した楽屋があって、そこから二階への階段と、右に曲がる廊下がある。右に曲がって突き当たると管理人室がある。おそらくこの建物の中で唯一、居住空間として作られた部屋だと思うが、俺はまだ入ったことはない。またその突き当たり右から中庭へ出る出口がある。
そこから左折するとシャワー室と厨房があって、そのまま突き当たりが勝手口になっている。楽屋を居間として考えると中々に快適な“家”なのではないだろうか? 楽屋に戻って二階に上がると、天井裏に続く梯子と一直線に続く廊下が存在する。その両側には緒大道具部屋がひとつ。倉庫が二つある。そして殺風景な光景に、違和感を感じさせるように「つなみの部屋」と書かれた倉庫があり、ここに彼女が棲み付いているのがわかる。もちろん俺はそこを開けたりはしない。
もう一度ロビーに戻って左側の廊下は、実質、客にとっては非常口としての意味しかないだろう。廊下の突き当たりに非常口だけしかない。ただ俺にとっては、その突き当たりに自分の居場所である舞台下の倉庫の入り口があるので、常に使い続ける経路となるわけだが。
また、こちら側にも舞台下手に通じる「関係者以外立ち入り禁止」の扉があって、舞台が使用されるときは、俺のいる倉庫ともども忙しく使われるのだろう。
ロビーの階段を上ると二階席がある。ただ、この二階席もまた使用される事があるのだろうか? と考えると大いに疑問だ。
そして、その二階席の奥にもうひとつ階段があるのが、この建物の特徴だろう。
三階というよりも屋根裏部屋といった構造がより近い。
その中三階に外側が見ると屋根から釣り下がるようにしてあるのが映写室だ、音響や照明の制御なども兼ねているのだが、今朝、フィルムの搬入を手伝って俺としては、映写室という印象が強い。ここは実質、つかさの根城と言ってもいいだろう。
そこから少し上がると、例の天井桟敷に行き着くというわけだ。
相変わらず、不思議な光景だ。
劇場を取り囲むようにして存在する空間は、二階席の上の部分と舞台の上の部分が一番大きく作られている。どちらもすでに板で仕切ってあって、劇場とは隔離されているのが、せめてもの良心(?)、あるいはプライバシーなのだろうか? すでに桟敷席としては機能していない部分、つまり二階席の上は、どうやらオリガと葛川さんが使っているらしい。
ベニヤ? 板で区切られた二部屋のカーテンがかけられただけで無防備なのはオリガのほうだろう。どうやって作ったのかはよくわからないが、ふすまで区切られているのは葛川さんのほうらしかった。
そして劇場の両側にある通用路―――ここは鉄パイプの柵で区切られているだけで、客席や劇場を眺めることが出来る―――を通って、舞台上の側へ行く。
そこは共用スペースのようになっているテレビとコタツと畳の敷かれた部屋で、ここが劇場の舞台の上だと考えるとまさに異次元空間だ。
奥に本棚と机があり、どうやらそこが高坂先生の「書斎」らしい。そして、その脇にはシーツのようなもので区切られただけの空間があり。そこが高坂先生の寝床らしい。オリガや葛川さんの「部屋」よりもずいぶんとぞんざいな作りだが、それには理由があるという事を、掃除のときにオリガと葛川さんから聞いている。
公演などが決まると、この舞台上の天井部屋は、テレビやこたつがどかされ、畳も剥がされ舞台用の天井となるらしい。
その間、高坂先生は二階の倉庫のひとつに根城を移す。元々、津奈美の使っていた部屋は高坂先生が使っていたらしいが、そのときに使うのはそれとは別の側の倉庫だ。
そんな面倒くさいことをするのなら、最初からその部屋を根城としたほうが、どう考えてもそちらのほうが落ち着くと思うのだが、どうもあの先生は違うらしい。
どうもあの天井裏の暗く狭苦しい空間が、執筆活動にちょうどいいらしく、最初はそこに筆記用具を持ち込むだけだったのが、公演の間が空くようになるにつれ机や本棚を持ち込むようになり、さらに使わなくなった桟敷席の畳を敷き始め、こたつやテレビを持ち込み始め……と、とうとうあの空間を占拠するようになってしまったらしい。
どうやらあの空間の主は高坂先生である事は間違いないようだった。
さて、そんな天井桟敷と呼ばれている空間からは、さすがに元々は舞台天井だっただけあって、二階倉庫へも上手側にある梯子で下りられるが下手側にある梯子から舞台下手裏に降りることができるようになっている。
それでもうひとつ面白いのは、上手側に小さな階段と扉がついていることだ。
ここから、『の右に出っ張った側の屋上へ出られるのである。
舞台のある側は二階席や天井桟敷などの関係から三階立ての上に寄棟構造になっているのでだいぶ高く作ってあるが、居住区画と倉庫のある右側はただの二階建てだ。そしてそちら側は無味乾燥とも言える鉄筋コンクリートの建物なので、屋上が平らになっている。
そのため普段は物干しに使われたり、なんとなくくつろいだりする場所になっているというわけだ。非常階段から中庭に下りられるようになっている事から元々は桟敷席の非常用通路としても使われていたらしい。
で、俺が空を見上げているのは、そんな場所なわけだ。
「ふう……」
もし、煙草が吸えたなら、一服したいような爽快感がある。
「何かごそごそしていると思えば、お前か」
「高坂セ……高坂さん」
一瞬、俺の呼び方に眉を反応させたのであわてて言い換える。
「まあ、呼び名ぐらいそこまで目くじら立てるつもりもないんだがな」
「もう起きたんですか?」
「起きたというより、起こされた。あそこはけっこう音が響く」
「あ……」
俺のせいか。そして、高坂先生が寝ている間、不思議なぐらい、オリガや葛川さんのような天井桟敷を根城にしている人たちを初めとして、樟里さんもつかさも近寄ろうとしなかった訳も理解した。
「すいません、ちょっと演芸館を探検してみたくなって」
「ま、いいさ……気持ちはわからんでもない」
そう言いながら高坂先生は、懐からハイライトを取り出して口にくわえた。
「ん? 吸うか?」
と箱を差し出してくれるが、
「いえ、俺は吸わない側なので」
「まあ、その方がいいさ。こんなもの吸わないに越したことはない」
と高坂先生は手馴れた仕草でシガレットに火をつけて、一息吸って青空に吐き出した。
その姿はなんとも旨そうで、吸わない俺でも思わず前言を翻したくなる。
「で、探検の成果はあったかね」
「え? ああ……」
と言われて、改めて気がつく自分の迂闊さ。
そうだ、俺は昨夜、高坂先生に示唆されたように、この演芸館に隠されていると思われるジジイの遺書を探している筈だったのだ。
今までまったくそんな事を忘れて、この変な劇場を見学する事に夢中になっていたのだからおめでたい話だ。
「今の今まで忘れてました……」
頭を掻く俺の姿がそんなに面白かったのだろうか、高坂先生はそんな俺を見て、ぷっ、と吹き出し笑った。
「ははは、急いで探して見つかるというものでもあるまいしな」
また煙を吐いて、笑う高坂先生。煙を吐くとき、それが人の方へいかないようにする動作が身についているようだった。
「心当たりでもあるんですか?」
なんとなく言い方が気になって尋ねてみる。
「あると言えばあるかな」
「え?」
「とは言っても、どこにあるかとか思い当たるというわけではないがな」
「どういうことでしょう?」
「たいした事じゃない、うちの劇団員どもに心当たりがある者がいるかもしれんよ。という程度の事だ」
「そうですか……」
少しの失望。
それを見て、高坂先生は畳み掛ける。
「遺書の実在すら、私の推測に過ぎないしな。無理に聞き出そうとしたり、探すのに熱心な余り度が過ぎた事をすれば、即出て行ってもらう」
「それはわかっているつもりです」
「ま、そう急ぐな。そのうちうちの者どもが、心許すようになれば、そのうち道は拓けるさ」
当面は遺書探しよりここの住民と仲良くしろ、という事か。まあ、もっともなことではある。
「わかりました、せいぜい男の身でここに居させてもらっている信頼は裏切らないようにさせてもらいますよ」
「まあ、オーナーの権限を最大限に振りかざして、無理を通すという手もあるのかもしれんがな」
と高坂先生は、白い歯を見せてニヤリと笑う。しかし目は笑っていない。
「そんなことはしませんよ。どうにも、敵に回すと怖そうな人が多すぎる」
朱里はもちろんのこと、オリガ、葛川さんだってその身のこなしから侮る事はできないだろう。それに、どうにも高坂先生は俺よりよほど頭が回るようだし、何より樟里さんがほとんど初対面に近いはずなのに妙に俺が頭の上がらない雰囲気があるのだ。
とてもじゃないが敵わないと考えておいたほうが見ておいたほうがいい。
俺は早々に降参の態度を明らかにしておく。
「それがいい。暢気なように見えて、みんな必死で生きてるからな」
「え?」
「少し口が滑ったな。一服終えたし、私はもう一寝入りさせてもらう」
気になる言葉に視線を高坂先生のそれに合わせた俺に対し、彼女はそれをかわすようにして吸殻を手持ちの灰皿で潰して、自分の寝床へと帰っていく。
一瞬、その先を問いかけようと呼び止めたくなったが、やめた。
さっき急ぐなと言われたばかりじゃないか。
つまりは、そういうことなのだろう。

演芸館スタッフの昼食は、朝あらかじめ樟里さんが作り置きしておいた物を、手が空いたら食べるという事になっているらしい。そんなわけで、朝の掃除や片付けなどはオリガと葛川さんが中心になってやっていたわけだ。
今日はおにぎりと卵焼き、ソーセージを焼いたものがラップされて楽屋に置かれていた。
「……いってきます」
「いってくるョー」
それを食べ終わると、二人仲良く出かけていった。

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