酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第十九回 夏侯惇

『隻眼忠魂~朴訥なるナンバー2の真価 夏侯惇~』

「片目を喰らう夏侯惇」の本当の意味

夏侯惇(字・元譲)という人物を考えるにあたって注目しておきたいエピソードがある。
曹爽の呂布征伐に従軍した夏侯惇は流れ矢に当たって左目を負傷してしまう。この負傷によって隻眼となった夏侯惇は、曹操軍の軍中において夏侯淵と区別するために、夏侯惇を『盲夏侯』と呼んだ。夏侯惇はこの呼び名を嫌がっており、鏡を見るたびにカッとなって鏡を地面に叩きつけていたという。
一見、夏侯惇の猛将らしい血気盛んな様子を表しているように思えるエピソードだが、ちょっと待ってもらいたい。

五体満足で、眉目秀麗なことが重要視された古代社会での出来事である。

中でも儒教色の強かった古代中国では、父祖から与えられた体を傷つけることを大変に特に厭っており、刑罰や見せしめなどに身体を欠損させることをしばしば行なっていた。

洋の東西を問わず、現代のように身体や精神の障害に対する配慮などほとんどなく、むしろそれを差別することによって社会秩序の一助としていたような時代のことである。
片目を失った夏侯惇に対する『盲夏侯』というあだ名は、現在の我々が想像する以上に手酷い侮辱であった。

特に面子というものを非常に重んじる中国社会では、それを言った相手を殺してでも許したくない呼び名であったろう。

実際、夏侯惇は激しい気性の持ち主であり、14歳のときに恩師を侮辱した人間を殺している。

もし夏侯惇が自分を『盲夏侯』と言った相手を殺したとしても、普通に美談として語られてもおかしくはない時代である。
だが、この事について夏侯惇が軍中の人間を殺したとも伝えられていないし、あくまで夏侯惇は、このような酷いあだ名に対して表面上は受け入れて、密かに鏡に当たり散らすだけにとどめていた模様である。
このあたりに曹操軍における夏侯惇という人物の立ち位置とその機微が伺えるように思えてならない。

戦上手ではない勇将

思えば夏侯惇は決して戦上手といえる武将ではない。

夏侯惇と並び称され『盲夏侯』ではない方の夏侯淵は、その神速の用兵で有名な武将であり、「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日一千里」と称えられるれるほどの華々しい戦歴を持っている。

それに比べると夏侯惇は、呂布が張邈と手を結んだ時に人質として捕らえられてしまったり、史書における従軍記録も「太祖に従い」「後軍を任され」といった記述が目立ち、単独で戦功を立てている様子は見受けられない。
しばしば、こういった記述のために言われるのが「夏侯惇は曹操の親戚であったがために重用されていただけで、軍事的な力量はなかった」という「能力主義的評価(能力値史観)」である。
確かに戦功などを参考にして、ゲームのように数値化してしまうような歴史の読み方をするのであれば、夏侯惇は「無能」に見えてしまうだろう。

しかし、組織というものが個々の技術や力量、有能さのみで動くのであれば、古来、人間社会は苦労しない。
ここで最初のエピソードを思い出してもらいたい。
もし夏侯惇が本当に無能で軽んじられているのであれば『盲夏侯』と呼ぶことは完全に洒落では収まらず、流血沙汰もしくは曹操による処罰が行われていただろう。

また気軽にそのような呼び方ができる雰囲気になる筈もない。
そして、夏侯惇もまたその呼び名が決して悪意から来ているものではなかったからこそ問題にせず、密かに鏡に当たるだけに済ませていたに違いない。
もとより曹操の夏侯惇に対する信頼は、他を圧倒しており並び称される夏侯淵すら比肩できないほどである。

彼の場合「太祖に従い」という記述がとても多い。

さらに「車を共にし、寝室も出入りさせる」という扱いをしているが、それ以前から布告を出すまでもなく挙兵時から寝食を共にしながら戦ってきている。

もちろん、その役職も軍人たちの中では常に筆頭であり、呂布討伐時にはすでに高安郷侯に任じられている。

曹操の配下の中では列侯に任じられた最も早い例である。

夏侯惇の重要性

このように圧倒的に重用されている夏侯惇が、決してそれに驕らず、また自分を『盲夏侯』と呼ばせることを表面上を許容するように寛容であったということは、曹操軍の秩序を維持するためにどれほど貢献したか計り知れない。
政治に軍事に様々な場所を飛び回らなくてはならない曹操である。

彼にとって、軍の重鎮でありながら慎み深く、表面上は温厚かつ、内面に激しいものがあるために「威厳」もあるという「軍のまとめ役」が存在するというメリットは、区々たる戦功や軍事的な技術など問題にしないほど大きなものであった。
216年、孫権征伐に従軍した夏侯惇は、曹操軍が引き上げたあと二十六軍の総司令官として居巣に駐屯させられる。

それを大過なく務め上げ、後に楽人と歌妓を下賜されている。

このとき曹操は「春秋時代の魏降は、胡人との和睦を成功させただけで、楽器を賜った。ましてや将軍にならばこれぐらい当然である」とコメントしている。
これについては具体的に劉備と比べてみるとわかりやすい。

軍事的能力を高く評価されていた関羽は外部との軋轢を起こして自滅してしまい、荊州を失陥するという事態を招いてしまっている。

広大な領土や大きな組織を維持するに当たって「安心して、部下のまとめ役を任せられる」人材は大変得難い。

なにしろ能力的な問題だけでなく、人格的にはもちろん、組織内での「格」でも周囲を納得させうるものが必要であるからだ。一朝一夕で育てられるものではない。
曹操にとって、曹操陣営にとっての夏侯惇という存在は、その挙兵当時から一貫して曹操陣営のまとめ役であり、臣下の筆頭であったというわけだ。
夏侯惇にはこのようなエピソードがある。
呂布征伐の最中に曹操の勢力圏では干魃と蝗の被害が激しかったため、太寿という河川に堤防を作り灌漑を行った。このとき指揮を任された夏侯惇は、自らもっこを担いで土運びをしながら士卒や将兵を励まし、稲を植えることを指導したという。
押しも押されぬ曹操陣営のナンバー2『盲夏侯』の骨惜しみしない姿勢は、乱世において曹操陣営という存在の原風景として体現していたように見えただろう。
挙兵時からこのような人物が傍らにいた幸運を、もっともよくわかっていたのが曹操自身であり、そして周囲の曹操軍の将兵たちも同様であったに違いない。

能力ではなく、人格による曹操軍のまとめ役。

それが夏侯惇という武将の真価であった。

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