恐ろしく多くの人が誤解しているが

私は別に「ゲームを語るのに昔のゲームを知らなくてはダメ」といっているわけではない。

「ゲームの思い出」だったら好きなように語ればいいのだ。

ただ、もはやゲームというのは「なつかしのおもちゃ」でもないし、そろそろ「ゲームの歴史」を語り継いでかなければならないぐらいに文化的に成熟している。

だからこそ、できる限り正確に近い「ゲームの歴史」を語り継いでいく必要があるし、そのためには他の分野で先人が培ってきた「歴史の語り方」があるという話なのだ。

本当に困るのである。

『夢幻の心臓Ⅱ』が難しくて情報量の多いゲームだったとか、『ザナドゥ』がリソースが有限でリソースをやりくりしなくてはならないゲームだとか、「ゲームの歴史」として誤解されてしまう事がである。

明らかにエアプで当時の感覚を知らずに語られてしまっては、そのゲームの真価が誤解されてしまっては、そのゲームの価値も減じられるし、なにより「パソコンゲームの果たした役割」も軽く見られてしまう。

その結果が、今現実的に起きている「パソコンゲーム市場の果たした役割を軽視たゲームの歴史」という歴史修正だ。

これ元パソコンゲーマーとしては腹立たしいし、生臭い言い方すると「元ログインの編集者」だったという事実が軽んじられてしまうのもムカつく。

だからこそ私は声を挙げたのだし、もっといろいろなところで声が挙げられるべきだと思う。

そのためのインターネットであるし、ネット媒体の一般化なのであるから。

っせかくある媒体を活かして、少数者が声を挙げていかないと、多数の暴力で歴史が修正される。

そんなゲームの未来は、ちょっと不健全だと思うのだ。

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