幕末 ぼくたちの好きな新選組 第十七章 北へ……~土方歳三の戊辰戦争~

第十七章 北へ……~土方歳三の戊辰戦争

1868年 411日 旧幕府江戸城を新政府に明けわたす

5月15日 彰義隊、新政府の攻撃により潰滅

     11月6日 会津藩、新政府に降伏。

     1215日 榎本ら蝦夷地に新政府を樹立

1869年 5月18日 函館政府、新政府に降伏

江戸城降伏と新選組の流転

1868年4月11日。勝海舟と西郷隆盛の会談によって、新政府に対する江戸城明け渡しが成立する。

これにより名実ともに旧幕府の組織は解体され、日本は新政府のものとなるのである。

しかし、これに唯々諾々として従った者たちばかりではなかった。

旧幕府の主戦派はまず江戸で蜂起する。

5月に旧幕府の主戦派が江戸に参集し、彰義隊を結成。これには旧新選組の原田左之助が加わっている。

だが、5月15日に行なわれた新政府の一斉攻撃により彰義隊は潰滅。原田も戦死している。

一方、近藤の救出を果たせなかった土方は、同じ旧幕府の主戦派である大鳥圭介の先鋒隊と合流。

4月19日、宇都宮城を陥落させている。

しかし、4月23日には同城を新政府軍に奪い返され、敗走。結局会津に敗走し、斎藤ら別働隊と合流した。

一方で5月2日には長岡藩が武装中立を宣言し、新政府軍と激しい戦いを繰り広げる。北越戦争という激戦は8月まで続く。

5月3日、東北各藩による会津の寛大な処置を嘆願する奥羽列藩同盟が設立される。

しかし、新政府はあくまで会津討伐を主張、これにより会津において戊辰最大の激戦が繰り広げられる。

しかし、116日、会津藩は善戦の末に降伏。

新選組はこの戦いでさらに会津と運命を共にすべきという斎藤一と、まだ戦うべきだという土方の二派に分かれるのであった。

会津に残ったのは斎藤をはじめとして11名、土方とともに東北に下ったのは20数名であった。

新選組はこの期に及んでなお、分裂を繰り返すのである。

東北に落ち延びた土方ら新選組の残党は、9月16日に仙台に到達。

ここで新選組の再編成を行なう。この時期25名まで隊士が減っていた新選組は、ここで100名強まで新隊士を募集し、再び勢力を挽回する。

彼らは幕府艦隊を率いる榎本武揚と合流し、蝦夷地すなわち北海道へと新天地を求めるのである。

1026日、江戸地へわたった新選組を含む旧幕府軍は函館の五稜郭を占拠する。

ここで11月に蝦夷地を領していた松前藩を撃退し、1215日に榎本らは蝦夷地にて新政府の樹立を宣言するのである。

最後の幕府軍と新選組の最後

旧政府の後任が辺境を領土として存続するのは植民地政府にはよくある事例である。

榎本らの函館独立政府はそれなりの説得力をもったものであり、諸外国も興味を示していた。

しかし、国内に二つの政府があったために衰退した幕府の事例を思えば、新政府にとって函館政府など認められるわけがなかった。

この蝦夷地新政府で土方は陸軍奉行並函館市中取締役裁判局頭取という、陸軍と函館の司法を握る重職につく。

1869年、年号は明治に改められ、それとともに新政府の攻撃は激しくなる。

4月に蝦夷地へ上陸した新政府軍は、旧幕府軍を圧倒。

この激戦の中で函館政府陸軍奉行並として、鬼神のごとき奮戦を見せるが5月11日、不落を誇っていた一本気関門にて土方は戦死。

これによって旧幕府軍は総崩れとなる。新選組は最期の指揮官土方歳三を失い14日、官軍に投降する。

5月18日、五稜郭と函館政府は降伏し、ここに旧幕府の組織だった最後の勢力は全滅し、名実ともに新政府の統一国家が完成するのであった。

内藤隼人

18351869

土方歳三の変名である。

鳥羽伏見の戦の後、江戸に帰還した新選組は甲州接収の任務が与えられるとともに、近藤は若年寄格、土方は寄合席格に取り立てられる。

それにともなって近藤は大久保大和、土方は内藤隼人と名を改める。

大久保も内藤も徳川家の名臣として著名な家系であり、彼らが幕臣として取り立てられた実感をより伴う改姓であると言えただろう。

このころすでに悪名高かった新選組としての素性を隠すだけではない、名門の姓である。

この姓に変えてから、土方と新選組は戊辰戦争の最後まで戦い抜くことなる。

とは言っても、隊士たちが一枚板ではなく、それぞれの考え方によって分派していったあたりが面白い。

江戸に踏み止まり、彰義隊とともに戦った原田左之助や永倉新八、あくまで会津藩と運命をともにした斎藤一。

函館に至るまで新政府に抵抗し続けた土方。

こう書くと、あくまで抗戦を貫いた土方がもっとも士道を貫いた印象があり、それが美化して伝えられている事もあって土方の人気は絶大なものがある。

しかし、幕府を守るならばあくまで江戸に拘った永倉や原田、新選組にとっては主筋に当たる会津藩にあくまで運命を共にした斎藤たちも、それぞれが士道を貫いたのである。

また土方にはあくまで戦い続けねばならない事情もあったろう。

周知のとおり近藤と土方は生まれ付いての武士ではない。

近藤が流山で降伏した後、武士として死ぬことを許されず斬首され、首を晒されるという運命をたどったのは、こういった出自も理由となっている。

武家の出である永倉や原田、斎藤と違って、土方は最後まで降伏を許されない立場にあったのである。

近藤の末路を知った彼は、武士として死ぬには戦死以外にないと思い定める以外になかった。

あくまで幕府に忠誠を貫いた、とか男としての意地を貫いたとか美化して描かれがちな土方であるが、その裏には悲壮なまでの事情があったのである。

士道とは本来、主君に忠義を貫くものである以上、慶喜が恭順してしまった後、彼の忠義はどこを向いていたのだろうか?

函館政府に身を投じた土方には、榎本のような函館共和国設立といった理想があるわけでなく、かといって忠誠を尽くすべき主君がいるわけでもない。

そう考えると「たとえ身は、蝦夷の島根に朽ちるとも、魂は東の君や護らん」という土方の辞世の句は、彼の浮遊してしまった忠義への思いが、なんとも悲哀を感じさせる句ではないか。

武士として生き、武士として死にたかった彼は、最後まで“士道”という幻想を抱かずにはいられなかったのだろう。

ある意味、彼が最後まで忠誠を貫いた人物として描かれるのは、まさに本懐であったに違いない。

名将 土方歳三

近藤の死後の土方はまさに名将に相応しい。

宇都宮城攻略戦では、7万7千石を誇るとはいえ、その守備兵力が600程度であるのを看破し、わずか1000人で陥落させている。

このとき新選組は激しい白兵戦を行い、土方は怖気づいて逃げようとした兵士を一刀で斬り捨て、兵士を叱咤している。

この厳しい戦闘指揮は函館に至るまで貫かれる。

勝ち組であった時代は味方を鼓舞するのに長けた近藤が指揮をし、敗勢になった後は兵を引き締めるのに長けた土方が指揮をしたというのは、偶然とは言え適材適所のリレーであったと言えるだろう。

榎本武揚

1836-1908
幕臣。昌平坂学問所で学び、さらに中浜万次郎に学んで、西欧知識を身につける。

函館奉行の小姓として蝦夷地に渡り、樺太探検にも参加している。
一橋慶喜が将軍後見役となった1662年に、軍艦建造監督を兼ねてオランダへ留学しており、帰国したのが1667年という大政奉還直前の時期である。

つまり彼は幕末の動乱期に日本にはおらず、その間、西欧において国際知識を学び続けるのである。
ところが帰還した榎本を迎えたのは、ほとんど崩壊寸前の幕府であった。

榎本は海軍副総裁として幕府海軍を任されるが、まもなく幕府は大政奉還によって政権を放棄してしまう。
恭順派は交戦派が激しく対立する中、榎本は新政府軍に対して圧倒的な戦力を誇る海軍を背景に、徹底抗戦を主張する。

しかし鳥羽伏見で敗れ、徳川慶喜が江戸に帰還すると、戦う名分もなくなり彼は幕府艦隊に幕府軍を収容して、江戸へ帰還。

徹底恭順の方針をとる徳川慶喜と勝海舟は、江戸を開城して降伏。
ここで国際事情に詳しい榎本が思い浮かべたのが、海外の植民地でしばしばある「亡命政府」であった。

彼は幕府艦隊を率いて江戸を脱走、函館を根拠地として、北海道に亡命政府を築く。
彼が会津藩や奥羽列藩同盟に組しなかったのは、幕末期に海外にいた彼としては、東北諸藩のどこについてよいかの判断がつかず、さらに人脈もなかったからであろう。

榎本としては気心の知れた幕臣だけで、土地鑑もある函館に行くしかなかった。
函館に亡命政府を築いた榎本は明治2年まで抵抗を続けるが、降伏。

彼の海外知識は新政府でも重用され、新政府に登用され、彼の本領は新政府で発揮される。

榎本と北方領土

新政府において、その経歴から北方事情に詳しい榎本は、ロシアとの北方領土における外交に尽力する。

明治5年にロシアと結ばれた千島・樺太交換条約は、それまで曖昧だった両国の北方領土問題を明確にしたものであった。

幕臣時代から蝦夷地をはじめとする北方領土事情に詳しい彼が存在しなければ千島も樺太もロシアの領土になっていただろう。

現在も続く北方領土問題を思うと、幕末から現在までの歴史は、決して断絶したものではなく、きちんと延長線上に存在することがわかる。

東郷平八郎

1847~1934

薩摩藩士。戊辰戦争では薩摩藩士として新政府軍に参加。海軍の士官として函館戦争にも参戦している。

土方による襲撃、すなわち宮古湾海戦においては、土方率いる奇襲艦隊を撃退している。

後に日露戦争では連合艦隊を率いて、日本海海戦に完全勝利し、日本を勝利に導いた。

日本が誇る海戦の名将である。

大鳥圭介

1833〜1911

播州赤穂出身。兵学を修め幕府に仕える。

幕府の洋式兵制刷新を推進した人物の一人であり、江戸開城時には、200名の兵とともに脱走。東北で転戦し、函館政府では陸軍奉行として陸軍を率いる。

その学識から新政府にも登用され、工業力推進に尽力。日本初の活版印刷を成功された人物である。

ポテチン

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