幕末 ぼくたちの好きな新選組 第十六章 最後の夢~甲州鎮撫隊と近藤勇の斬首~

第十六章

最後の夢~甲州鎮撫隊と近藤勇の斬首~

1868年 2月12日 徳川慶喜、上野寛永寺にて謹慎
3月1日 甲陽鎮撫隊江戸を進発
3月4日 新政府軍甲府城接収
4月3日 近藤勇、流山にて捕縛
4月11日 江戸城、新政府に明け渡される
4月25日 近藤勇、板橋宿にて斬首

破格の扱いの真意

江戸へと敗走した新選組隊士は総員116名である。

1月20日には旧幕府より江戸屯所として、鍜治橋門内の秋月屋敷が与えられ、再び新選組としての体裁を整えていく。
その頃、江戸城内では徳川慶喜が大阪再出征を唱えたため、主戦派と恭順派に分かれ、激論となるが次第に慶喜は恭順に傾いていく。

そして2月12日、新政府への恭順を決めた慶喜は、上野の寛永寺に移り謹慎する。

徳川家存続のため、絶対恭順を方針とした慶喜は、勝海舟に命じて降伏の準備を整えさせる。
その際に邪魔となるのが、新選組であった。

近藤が主戦派であったというだけでなく、新選組の名は京都であまりに血塗られすぎていた。

そのため勝は、新選組を暴発させずに江戸から離れさせるために、甲府城の接収を命じる。軍資金として幕府より2400両、会津藩より1200両、医学所頭取の松本良順より3000両が与えられ、甲府100万石を自由にしてよいという破格の措置であった。

旧幕府がどれほど新選組を厄介払いしたかったかわかる措置である。
3月1日、隊名を甲陽鎮撫隊と改めた新選組は、甲州へ向けて進発したのである。

甲陽鎮撫隊から近藤の斬首まで

大名駕籠に乗った近藤は多摩の故郷で錦を飾りつつ、のんびりと進軍していた。

3月4日、先発した隊士によって甲州に新政府軍が入ったと聞くや、あわてて隊を急がせる。

しかしすでに甲府城は新政府軍に接収されてしまっていた。

この時点で200名いた隊士は脱走が相次ぎ、120名に減少。

さらに勝沼に布陣した近藤は新政府軍と交戦するが、一方的に敗走する。

犠牲は僅かに2名なのが、かえって早々と敗走したことを伺わせる。
敗走した甲陽鎮撫隊はもはや、組織の体をなしていなかった。

近藤と土方は、会津を支援するという永倉新八・原田左之助らと対立し分裂してしまう。

永倉と原田は元隊士と旧幕臣を集め、靖共隊を結成。
一方、近藤と土方は新政府軍との接触を避け荒川を越えた五兵衛新田で隊の再編成を行なう。

50名ほどの元隊士を中心に、新隊士を募集している。
新政府に恭順を決めた勝は3月16・17日に近藤らに使者を送り解散を要請している。

だが近藤はこれを受け入れず、4月1日、流山に移転を開始。この時点で新隊士を合わせて227名を数えている。
しかし、すでに新政府軍は江戸に入ろうとしており、彼らの動きが察知されないわけがなかった。

流山に多数の集団が集合しているとの報を受けた新政府軍は、流山を派兵し、集団の長の出頭を要請する。

当時、近藤は大久保大和、土方は内藤隼人と名を変えており、この時点では新政府軍は彼らが新選組であるとは知らなかったのであった。
4月3日、近藤は新政府軍に出頭する。

一方、土方が出頭した近藤の救援を依頼に江戸へ脱出している。4日に勝は土方と会談し近藤救出を承諾している。
4月5日、勝より新政府軍に大久保大和の解放を要請する書面が届くが、解放直前に近藤の正体が暴露されてしまう。

彼の正体を見破ったのは、元御陵衛士加納鷲雄であった。

これにより近藤の命運は定まり、4月25日、彼は切腹も許されず斬首となる。京洛に名を轟かせた近藤勇の最期は刑場の露であった。

勝海舟

1823〜1899
幕末の幕臣きっての才人。

慶喜とともに幕府を支え、大政奉還後は徹底した恭順政策をとり、江戸を無血開城する事で幕府の最後を看取った人物である。
旗本の家に生まれ、熱心に蘭学と兵学を学び、ペリー来航時には幕府に意見書を出している。

彼を見出したのは幕府ではなく薩摩藩主島津斉彬であり、斉彬によって阿部正弘に紹介されたことで彼は歴史の表舞台へと上る。

彼が幕末に終始薩摩藩寄りの政治姿勢をとっていたのも、むしろ当然であったろう。

遣米使節として咸臨丸の艦長としアメリカに渡り、その見識を見込まれて幕府の海防責任者として軍艦奉行並となる。

軍艦を11隻も購入し、幕府海軍を充実させていくが、一方で国内戦を徹底的に否定した非戦論者であった。

第二次長州征伐では、敗勢に陥った幕府の全権大使としては長州との和睦を成立させるなど、末期の幕府と倒幕勢力との仲立ちを常にしている。
大政奉還後、徹底抗戦を説く小栗忠順と対立し、慶喜とともに徹底恭順姿勢を貫く。

その過程で新選組を新政府に恭順するための邪魔者として扱い、甲州鎮撫の名目で江戸を追い出したのが勝であり、新選組にとっては新選組にとどめを差した人物であったと言える

。勝海舟は新政府に、ただ無血開城したわけではなく、榎本率いる幕府艦隊を海上駐留させ、幕府軍を各所に配置して抗戦も辞さない構えを見せての開城劇ではあり新選組の防衛戦の一翼を担ったという説もある。

だが火力より白兵戦に特化し市街戦を得意とする新選組を江戸に置かず、甲府に出征させたのは、新選組を戦力として考えれば最悪の用兵であり、明らかに厄介払い以外の何者でもなかったろう。
どうも勝は新選組に好意を抱いておらず、蛤御門の戦い後には新選組を批判している。

海外を検分し、日本を一個の国として見ていた勝海舟にとっては内戦に明け暮れる過激派志士も新選組も、どちらも好意的ではいられなかったであろう。
ともあれ、幕府の最後をこういった人物が握ったのは、新選組にとっては不幸であり、江戸を始めとする日本にとっては幸せであったという他がない。

こうして考えると、京都の治安を守ることで躍進していった新選組が、やがてその存在が市民の安全と相容れなくなっていったところに、新選組の悲劇があったと考えられる。

勝海舟とその人脈

幕府につきものの派閥政治と無縁であった勝であるが、彼の人脈はむしろ幕府の外にあった。

そもそも彼を見出したのが薩摩藩藩主島津斉彬であり、その縁もあって西郷隆盛と親しくなっている。

また福井藩主松平春嶽の紹介を受けて土佐の坂本竜馬と知り合い、神戸軍艦操練所を設立して多くの浪士たちを保護している。

彼の存在を見ると、幕末期が単なる佐幕と勤皇の対立軸で語るべきではなく、幕府側にも倒幕側にも複雑に入り乱れた人脈が形成されていたことが理解できるだろう。

新選組と勝海舟

勝海舟の師である佐久間象山の息子、格次郎は父の仇を討つために新選組に入隊している。

このとき近藤と土方に口を利いたのが勝であった。

しかし、格次郎は入隊後、酒色に溺れて仇討ちは頓挫したという。

数少ない新選組と勝の交流であるが、その結果がこのようになるとは、つくづく相性のあるい両者であると言えるだろう。

河井継之助

18271868

長岡藩家老。佐久間象山に学び、蘭学や兵学を修める。

早くから西欧事情に通じた人物である、諸国を遊学して松山藩では山田片谷に藩政を学ぶ。

藩主牧野忠恭に認められ、郡奉行・町奉行・年寄役などを歴任し、長岡藩の政権を握り、長岡藩の藩政を改革する。

戊辰戦争では奥羽列藩同盟にも新政府軍にも組みさず、中立を主張したが新政府軍には受け入れられず戦争となる。

その結果として長岡戦争が勃発するが、河井は当時日本に3門しかなかったガトリング砲を2門購入しており、さらに長岡藩兵は東北でもっとも早く洋式軍制を整備した藩であった。

つまり薩長の洋式装備に勝るとも劣らぬ軍事力を持っていた長岡藩は、新政府軍と互角以上の戦いを展開。

最後は新政府軍の長岡城奇襲によって敗れるが、この長岡戦争は戊辰戦争における最大の激戦であるとされる。

長岡藩を改革し新政府軍と互角に戦えるほどの実力を持たせた手腕を評価する者と、長岡を戦火に巻き込んだ首謀者として断罪する者と毀誉褒貶が未だに真っ二つに別れる人物である。

とはいえ河井によってわずか七万四千石の小藩でしかなかった長岡が幕末史に名を刻んだのも確かである。

戊辰戦争を語るに当たって、鳥羽伏見、会津、長岡、函館での戦いは真っ先に語るべき戦いである。

打ち砕かれた墓石

長岡を灰燼に帰した河井を恨む声は当時根強く。河井の墓は建立されるたびに打ち砕かれたという。今も残る墓にもその痕跡は残っている。

米俵百俵

長岡戦争において、戦火に巻き込まれた上に賊軍とされた長岡は窮乏する。

長岡を救援するために百俵の米が送られたが、当時藩政を握っていた小林虎三郎は、これを目先の食料として使わず、将来のための教育資金として、学校を設立した。

有名なエピソードだが、この小林虎三郎と河井は遠縁であり、佐久間門下でも同期であった。河井ライバルとも言える存在であり、新政府への徹底抗戦に反対し、謹慎させられている。

河井が死に、長岡が敗戦すると、藩政を握り、上記のエピソードに見られるような善政をもって長岡を立て直している。

立見鑑三郎

生没年不詳

桑名藩出身。長岡戦争では、わずか300の兵で1000人もの新政府軍を破るなど、新政府軍を翻弄した。

その戦上手ぶりは評価が高く、日露戦争では弘前師団を率い黒溝台の奮戦など、帝国陸軍屈指の名将として活躍している。

幕末における賊軍出身者としての意地を見せた人物の一人と言えるだろう。

飯沼貞吉

18541931

白虎隊唯一の生き残り。

会津戦争では白虎隊など、藩士では老若男女を問わず奮戦した。

とはいえ、庶民たちは武士同士の戦いとみていた。

だが、敗戦後、新政府軍は戦死者たちの埋葬を許さず、また略奪や婦女暴行を働いた。

会津人が士民を問わず、新政府軍を恨むのは、戦後のこうした行動によってであった。

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