幕末 ぼくたちの好きな新選組 第十五章 そして維新へ~王政復古と鳥羽伏見の戦い~

第十五章 そして維新へ~王政復古と鳥羽伏見の戦い~

1867年 11月16日 坂本竜馬と中岡慎太郎暗殺される。
     12月8日 王政復古の大号令
12月18日 近藤勇、狙撃される。
1868年 1月3日 鳥羽・伏見の戦い開戦
1月6日 徳川慶喜、江戸へと敗走。

新選組の衰亡

11月16日。土佐の坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺される。

彼らは薩摩と長州の同盟の仲介役や大政奉還、倒幕の密勅降下の工作などに重要な役割を果たした二人の死は倒幕派の大きな衝撃であり、その疑いと恨みは新選組にかけられた。
12月7日、同じ坂本・中岡暗殺の首謀者とみられていた紀州藩士三浦休太郎にともに、新選組は天満屋で、坂本の海援隊と中岡の陸援隊16名によって襲撃されている。

さらに12月18日、御陵衛士の残党によって近藤が狙撃されるという事件が起きている。

命に別状はなかったが近藤は右肩に重傷を負う。

池田屋をはじめ、幕末の京都でも白刃の中心にいながら傷ひとつ負わなかった近藤の負傷は、新選組の衰運を象徴しているようであった。

王政復古と徳川家への挑発

12月8日、朝廷によって王政復古の大号令が発令される。

これにより諸藩の藩主や藩士、公家による新政府が樹立される。
しかし、この中に徳川家の慶喜の名はなかった。

さらに12月9日、徳川家には新政府より官位と領地を返還せよとの命令が下される。

官位はともかく、多くの幕臣や軍を養っている徳川家がこれを受け入れられる筈もない。

これは明らかに、徳川家を挑発し暴発させ、大政奉還によってはぐらかされた勅命による徳川家の掃滅を企図したものであった。

さらに薩摩藩は徳川家の本拠地江戸でも、浪士たちを扇動し略奪や放火などを行なわせ徳川家を挑発し続けた。
かつて長州藩が追い詰められて暴発し、蛤御門で討伐されたという事例を今度は徳川家になぞらせようとしたのである。

鳥羽・伏見の戦い

12月24日、旧幕府軍はまず江戸で薩摩藩邸を焼き討ちする。

これが28日に京都を退去に大阪城に集まっていた旧幕府軍に伝えられる。

こうなると大政奉還後、暴発を抑え静観していた将軍慶喜も主戦派を抑えられなくなる。

そして、年があけて1868年1日2日、ついに旧幕府軍は薩摩の罪状を書き連ねた「討薩表」を掲げ、京都に進軍を開始するのであった。
このころ新選組は旧伏見奉行所に駐屯していた。

目の前の薩摩藩邸があり、当時の最前線に彼らは配置されていたのである。
1月3日、鳥羽街道の赤池付近で薩摩藩兵と旧幕府軍が接触。

薩摩軍の発砲をきっかけに開戦、ほぼ同時期に伏見でも開戦し、新政府軍の洋式装備は刀槍主体の旧幕府軍を圧倒する。
新選組も伏見奉行所や淀方面で奮戦するが、井上源三郎が戦死するなど、24名の戦死者を出している。

京都での剣戟とは桁の違った戦死者数であった。
緒戦は薩摩軍有利に終わるが、旧幕府軍15000人に対して新政府軍は4000人ほどに過ぎず、最終的には数的優位で圧倒できる筈であった。

しかし、1月6日。夜陰に乗じて徳川慶喜が大阪城を退去。旧幕府艦開陽丸で江戸へと逃走してしまう。
慶喜は拉致同然に京都守護職松平容保と京都所司代松平定敬も江戸に連れ去っている。

このため代わりに指揮官となる者もなく旧幕府軍は戦意を喪失し解体。それぞれ国許に帰還する。
新選組もまた、旧幕府艦隊の富士山丸と順動丸ら便乗して江戸へと帰還したのであった。

松本良順

1832〜1907
幕府の奥御医師で、日本における近代医学の功労者の一人である。

佐倉藩医で後の順天堂の祖である佐藤泰然の次男として生まれ、幕医の松本家の養子となる。

幕府の命により長崎でオランダの軍医であるポンペに学び、ポンペと共に日本の近代医学教育と普及のために長崎養生所の開設に尽力した。

維新後、新政府に登用され初代軍医総監として陸軍軍医制度を成立させている。
この経歴からも分かるように松本は日本における医学の近代化に尽力し続けた人物であり、彼と新選組の間に接点があったというのも面白い話である。
池田屋の変後、隊士募集のために江戸に戻っていた近藤の訪問を受け、近藤に開国の意義を説いて感服させていたら親交を結んだと言われる。 将軍家茂の侍医として京都に上った彼は、新選組の診察を行っている。
ちなみに彼は隊士の中でも沖田を特に気に入り、料理屋などに連れ立っていったという。
幕臣の中でも胡散臭い目で見られていた新選組に対して、ほとんど例外的に好意的であった彼は、最後の新選組の庇護者であったと言えるだろう。

鳥羽伏見の戦後、江戸に戻った新選組隊士の傷病を診察し、金銭的にも援助している。

江戸降伏後は会津にまで行って隊士たちの面倒を見ている。

当時、幕臣たちが、新政府に恭順姿勢をとるために新選組を見捨て、江戸から遠ざけようとしていたことを見れば、彼の行動が新選組にとってどれほどありがたかったが理解できるだろう。
会津での闘いでは藩校日新館を野戦病院として負傷者の治療にあたっている。

函館までは同行できなかったものの、まさに医師として最後まで幕府のために“戦った”人物である。
後にこういった行動が災いし、松本は朝敵として捕らえられるが、彼はまったく後悔した様子はない。

それどころか、維新後も永倉らとともに新選組の慰霊活動を行い、慰霊碑の設立などに尽力しているのである。
維新後、当然のように新選組は朝敵として扱われるが、それだけで歴史の中に埋没しなかったのは、彼のような「近代医師」が新選組や近藤や沖田を高く評価していたというのもあったろう。

それによって、新選組のイメージは単なる人斬り集団にとどまらないものになったのだ。
今も新選組が語り継がれている恩人の一人として、松本の名は明記しておくべきであろう。

新選組の公衆衛生

松本が新選組の初めて屯所を診察したときの新選組屯所の環境は最悪であった。

風邪が蔓延し、骨折や打撲のけが人が続出、食あたりや梅毒の患者も多数いたという。

彼の回顧によれば200名弱の隊士の三分の一が伏していたというから悲惨である。

この惨状を見て、松本は浴場の設置や傷病者の隔離による衛生環境の改善と、豚や鶏を飼い肉や卵を摂取して栄養状態の改善を進めたという。
彼がいなければ、新選組は敵の手でなく病気の蔓延で潰滅していたかもしれない。

海水浴の元祖

海水浴という習慣は明治後にできた習慣であり、それまで日本には娯楽で海で泳ぐという習慣はなかった。

この海水浴を普及させたのが松本良順で、彼は国民の健康のために西欧から海水浴という習慣を持ち込んだ。

明治15年に彼は鎌倉の大磯に日本発の海水浴場を開拓した。

吉村貫一郎

1835~1869
南部藩出身。

諸士取調役兼監察、撃剣師範、目付を歴任。
近年、浅田次郎の『壬生義士伝』によって名を上げた隊士。

剣術学識ともに優れた人物であったが、南部の貧乏藩士として生活が成り立たず脱藩。

新選組に入隊し、家族に仕送りを続ける。

鳥羽伏見の戦いに敗れた後、南部藩帰参を願い出たが許されず、切腹。

その切腹の場には刀と金が置かれ「この二品、拙者家へ」との血文字が残されていた。
と、子母澤寛は『新選組始末記』において飢饉の相次いだ東北が生んだ悲劇の隊士として描いている。

これをもとに書かれたのが『壬生義士伝』である。
しかし、これらは全て後世に作られたエピソードであり。

実際には吉村貫一郎という、北辰一刀流を修めた隊士がおり、諸士取調役兼監察、撃剣師範を勤めたことと、鳥羽伏見において同一人物と思われる「嘉村貫一郎」が存在するだけである。
彼が貧しい家であったというが、江戸に出て北辰一刀流を修めるには、それなりの遊学資金が必要であり、貧乏藩士には不可能である。

鳥羽伏見後もに南部に帰参を願ったというのも、記録にはなく、素直に戦死したとみるのがよいだろう。
おそらく子母澤寛が『新選組始末記』を書いた当時、東北では深刻な飢饉などにより娘を売るほど苦しい貧農たちが社会問題となっていた。

新聞記者である子母澤はジャーナリストとして東北に同情し、新選組内で諸士取調役兼監察まで勤めた人物で、ほとんど記録を残されてない東北出身者がいるのを知り、当時にいたるまで根強くあった政府の東北差別への警鐘としたのではないだろうか。

南部藩の生き様

東北において南部藩は愚直なまでに筋を貫き通した藩である。

奥羽列藩同盟に最後まで従った。
そして同盟を裏切った秋田藩に攻め入り、さらに同様に官軍についた津軽藩とも交戦している。

このため明治後、南部は会津と並ぶ東北で冷遇された藩となるのである。

しかし、それでも屈せずに南部藩は、明治には初の平民宰相原敬、農業経済学者新渡戸稲造などを輩出している。
こうした愚直だが粘り強い南部気質が、下母澤や浅田の作り上げた吉村貫一郎の人物像の源泉となっているのは言うまでもないであろう。

井上源三郎

1829~1868

試衛館出身の隊士で、温厚で年かさの彼は近藤や土方らの兄貴分であったらしい。

新選組ではその性格から隊士に好かれていたようだ。

中には長老扱いする書物もあるが、実は近藤らより5~6歳年上なだけである。鳥羽伏見の戦いで戦死しており、その死は近藤たちにとっては大きな衝撃であったろう。

尾形俊太郎

生没年不詳

肥後出身。

五番組隊長・諸士調役兼監察を歴任。学識にも優れ、文学師範も勤めた。

山崎と同期の初期からの幹部であり、名実ともに大幹部である。

しかし、これほどの経歴ながら、吉村などのように“物語”を作ってくれる者がいなかったために、異様に影が薄い。

変な話だが、創作の穴場とかもしれない。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク