幕末 ぼくたちの好きな新選組 第十四章 油小路の戦い~大政奉還と新選組の分裂~

第十四章

油小路の戦い~大政奉還と新選組の分裂~

1867年 3月12日 伊東甲子太郎ら新選組だった、御陵衛士を編成
6月10日 近藤勇、見廻組与頭格に取り立てられたのをはじめ、隊士一堂幕臣に取り立てられる。
10月14日 薩摩と長州に倒幕の密勅が降りる。
      徳川慶喜、二条城で大政奉還を発表。
10月15日 徳川慶喜、参内し大政奉還を奏上
11月18日 伊東甲子太郎、新選組によって斬殺。油小路の戦い

御陵衛士の分裂

長州征伐の失敗と、孝明天皇の崩御によって世論とともに朝廷もまた倒幕派へと傾く。
このような情勢を見て取った伊東甲子太郎は1867年1月18年に九州へと遊説している。

その目的、自分や伊東派の真意は尊皇攘夷の倒幕にあるとの宣伝と、新選組分断の準備にあった。
2月2日、伊東は薩摩藩と長州藩の政治的仲介役である中岡慎太郎と接触。

倒幕派との連携を取り付ける。

さっそく伊東は同志である篠原秦之進に命じて、孝明天皇の陵墓のある泉涌寺の住職に働きかけさせ、朝廷より天皇の陵墓を護衛する“御陵衛士”の名を拝命したのであった。
3月12日。帰京した伊東は、近藤と土方に新選組分断を提案。

長州征伐の失敗で倒幕派の勢力が大きくなり、新選組内部でも伊東を中心とする勤皇派を押さえることができなくなっていた。

近藤らは倒幕派との連絡機関という名目で御陵衛士を認める。

伊東、篠原をはじめ十数名の隊士が御陵衛士として分裂した。
6月10日。幕府は新選組を正式に幕臣として取り立てている。

近藤が直参旗本として将軍謁見の資格を得た他、平隊士に至るまで俸禄が与えられた。

日に日に衰える幕府にとって新選組の戦力と武名はもはや手放せない所まできていたのである。

大政奉還

征長戦の失敗、薩摩と長州の同盟、孝明天皇が崩御などにより、幕府はもはや政権担当者としての主導権を失っていた。

朝廷に対する影響力も諸藩の支持も失った幕府にとっては、政権自体が重荷になっていた。
このような時期の6月。

薩摩から所属を替え、故郷である土佐と提携した海援隊隊長坂本竜馬が、ある策を提案する。

それは幕府が政権を朝廷に返還するいわゆる“大政奉還”であった。
この提案は土佐藩を通じて、薩摩・芸州との連名により10月3日に将軍慶喜に建白された。

政権を朝廷に返還しても、徳川家として八百万石と言われる経済力、国内最強の幕府海軍や新たに慶喜が編成していたフランス式陸軍を保有しており、国内外に対して大きな影響力と発言権を維持できるのは間違いない。

そう判断した慶喜は、この提案を飲み10月14日、二条城に諸藩を集め大政奉還を発表。翌日に参内して奉還を奏上している。
当時、薩摩藩と倒幕派公家によって幼帝を利用した倒幕の勅令が薩摩と長州に降る謀略が進んでおり、10月14日に密勅が下っていた。

慶喜と幕府は危うい所で虎口を脱したのであった。

油小路の戦い

このような情勢進む中、御陵衛士たちは、立場を鮮明にする事を迫られる。

彼らは倒幕派である事を証明するために、8月には長州藩の処分を寛大に、という建白書を朝廷に提出するとともに、近藤勇暗殺を企てる。
この近藤勇暗殺計画は新選組の間者であった斎藤によって近藤らに伝えられた。
11月18日、近藤は自らの休息所に伊東を招き。その帰り道で伊東を暗殺。

死体を油小路に晒すという行為で、御陵衛士を挑発する。

この挑発に御陵衛士7名は、伊東の遺体回収のために油小路に出動。

これを新選組約40名が取り囲み、服部武雄、藤堂平助、毛内有之助が闘死。これにより主だった人物を失った御陵衛士は事実上潰滅する。

服部武雄

1832~1867
播州赤穂出身。伊東甲子太郎とともに新選組に入隊する。

後に伊東とともに新選組を離れ、御陵衛士に参加する。

伊東が暗殺された後、その遺骸を取り戻そうと油小路にて新選組と戦い、壮絶な闘死を遂げている。
しばしば新選組最強の剣士とされる人物であり、当時においても「京洛一」と呼ばれるほどの剣士であったのは確かなようである。

「服部氏の剣術には新撰組が五人や十人で向うて之に敵せぬ事は近藤も能くこれを知りて居る。

服部の剣術は練達して非常に強い。

当時新撰組多しと言えども剣術に於ては服部三郎兵衛に能く敵する程のものない」

との油小路の変の目撃者の記録が残るように、彼が新選組の中でも剣士としての実力が秀でていたがあったのは確かであろう。
なんと言っても服部武雄が新選組最強と目される理由としては、油小路での活躍であろう。

伊東の遺骸回収のため油小路にむかった御陵衛士は、待ち伏せていた新選組と戦闘になる。

この闘いで藤堂と毛内は戦死、他の衛士たちは包囲を破って脱出する中、彼はただ一人で踏み止まり新選組を圧倒する。

先ほど挙げた服部の剣術に関する記録は、この時の服部の活躍を見ていた元桑名藩士の証言である。
歴戦の新選組を相手に、一人でここまで凄まじく戦った人物もおらず、なるほど確かに新選組屈指の剣士であったのは確かだろう。

ただそれ以上に服部を評価したいのは、油小路の前の彼の言動であろう。

伊東が近藤たちの誘いを受けたのを聞き、「新選組が何の理由もなく君を招くわけがない」と彼を止め、また油小路に向かう前には衛士一堂に鎖帷子の着用を主張している。

これについては、「後世の侮りを受ける」という理由で他の衛士たちは反対し、彼だけが鎖帷子を着用して油小路に向かっている。

彼は御陵衛士の中で唯一の戦闘のプロと言える人物であったのだろう。
ただ彼は武勇に秀でていただけではなく、彼が新選組隊士に一勢に撃ちかかられて殺害された後、彼の死体から血で染まった詩文稿が出てきたという。
ただの武勇の士ではなく、こういった文学趣味が伊東と共感しあったのであろう。

どうも服部は油小路を脱出するよりも、伊東とともに武士らしく死ぬ事を選んだように思えてならない。

そういった潔さが、彼が御陵衛士の中で人気の高い理由だろう。

坂本竜馬と服部武雄

坂本竜馬が横死した後、服部は「たずぬべき 人もあらしの 激しくて 散る花のみにぞ 驚るかれぬる」という、竜馬の死を悼む歌を詠んでいる。

御陵衛士はほぼ薩摩藩の別働隊と言ってもよい組織であるし、坂本竜馬と薩摩藩の関係は言うまでもない。

両者の間に面識があったのは不思議ではなく、むしろ薩摩藩が倒幕の密勅策を坂本に出し抜かれた事情も知っていたかもしれない。

そう考えて見ると「散る花のみにぞ 驚るかれぬる」という文句は、むしろ驚きというよりも「やっぱり……」という慨嘆なのかもしれない。

剣術師範でなかった服部武雄

新選組きっての剣士であった服部だが面白いことに彼は新選組の剣術師範の中に名を連ねていない。

これは服部に限ったことではなく、北辰一刀流の伊東道場の道場主であった伊東甲子太郎をはじめとして、伊東一派に腕の立つ者は多かった誰一人として剣術師範に名を連ねていない。

派閥争いの続いた新選組としては、肝心要の剣術については伊東派に触れさせたくなかったのであろう。

大石鍬次郎

1838~1870年
一橋家家臣とも大工の子であったとも言われる。
諸士取扱役観察。油小路において伊東甲子太郎を殺害したのをはじめとして、三条制札事件、天満屋騒動など、数々の事件で血刀を振るっている。
「人斬り鍬次郎」と呼ばれ、新選組関連の書籍などでは新選組における血生臭い面を一手に引き受けているような感すらある。

その剣は外部に振るわれるだけではなく、隊を脱退しようとした佐野七五三之助の殺害など、隊内にも振るわれており、「人斬り」としての不気味さを強調されている。

しかし、これは後世美化された、新選組幹部たちの印象を擁護するために、押し付けられてしまった印象だろう。
人斬りと言われた大石であるが、彼は常に隊士としての命令を受けての行動であり、彼自身が勝手に殺人を犯したという形跡はない。

むしろ、優秀な隊士として任務を果たしているだけの話である。

何度も書いているように、新選組は救いがたいほどに派閥争いを繰り返し、内部の者たちを殺害してきた組織である。

言ってしまえば、近藤を筆頭として、新選組幹部たちは全員が隊の内外を問わずに、殺人を繰り返してきた「人斬り」たちで、その数は大石など問題ではないとすら言えるだろう。
おそらく、新選組を美化するにあたりその血生臭い印象を薄めるために作られたのが「人斬り鍬次郎」というキャラクターであったのだろう。

人斬りの末路

大石鍬次郎は新選組の悪印象を押し付けるのに都合の良い末路を晒してしまっている。

関東に逃れた新選組が官軍に追い詰められたとき、彼は近藤に先立って自首してしまっている。

彼が新選組だと判明すると官軍は、激しい拷問を加えて、坂本竜馬暗殺について「俺が殺したのだ」という言質を取っている。
この証言が後に近藤が捕縛された後、坂本竜馬暗殺の責任者として近藤を切腹ではなく斬罪に処する決め手となっている。

つまり新選組局長の無惨な最後の引き金を引いたのが彼であり、新選組シンパにとっては、もっとも憎むべき人物となっている。

おそらく、これが後世に彼が悪名を押し付けられてしまう直接のきっかけとなっているのは、間違いないだろう。

佐野七五三之助

1836~1867

新選組幕臣取り立てのときに、「二君に仕えず」として新選組を脱退。

抗議の切腹をしたとも、殺害されたとも言われる。

ともあれ、元々仕える主君を持っていなかった近藤らにとって、本来の武士として士道を貫いた彼らの行動は最大の皮肉であった。

この件に関する限り、士道不覚悟は近藤たちなのであるから。

谷三十郎

?~1866

備中松山藩出身。七番組隊長など幹部を歴任。

息子である周平が近藤の養子となり、隊内で幅を利かせていたという。

隊内では嫌われており、その結果、暗殺されたとされるが、本当は単なる急病死であった。

さすがの新選組も嫌われていたというだけで、暗殺されるほど物騒な組織ではなかったのである。

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