幕末 ぼくたちの好きな新選組 第十三章 回天~第二次長州征伐と薩長同盟~

第十三章

回天~第二次長州征伐と薩長同盟~

1866年 1月22日 薩長同盟成立
     5月1日 幕府、長州藩に最後通牒
     6月7日 幕府軍、4方面より長州藩領に侵攻を開始
     7月20日 将軍、徳川家茂病没
     8月1日 長州藩の攻撃により小倉城落城
     9月4日 朝廷、長州征伐軍の解体を発令

 薩長同盟

2度にわたる局長近藤の広島出張に、新選組の目が京都から離れていたのだろうか?

それでも担当区域の割当てにより、かつての行動の自由度を失ったせいだろうか?

1866年、2度目の広島出張を控えた1月22日。

幕府にとっても新選組にとっても、致命的となる歴史的盟約が京都の薩摩藩邸で結ばれた事を新選組は察知していない。
禁門の政変や蛤御門の戦いなどの事情から、同じ勤皇藩でも仇敵といってもよい仲であった薩摩藩と長州藩の秘密同盟が結ばれるのである。

この禁門の政変にも匹敵する事件を幕府も新選組も察知せず、仲介役であった坂本竜馬が伏見寺田屋で幕吏に襲われたに留まった。
薩長同盟の効果は、4月14日の薩摩藩の長州征伐出兵拒否という形で現れる。

蛤御門の戦い及び第一次長州征伐において、最大の強硬派であった薩摩藩の出兵拒否は、諸藩の動揺を誘う。
そんな中、新選組は戦意旺盛であり、第一次長州征伐に加われなかった屈辱を晴らすべく、隊の編成を行軍用に改めている。

しかし、今度も新選組に出兵要請はこなかった。

京都の治安維持という理由もあるだろうが、大名並みの兵力を有する新選組を幕府軍の中でどう扱うか、諸藩の面目もある以上、面倒を避けたという事情もあったろう。

第二次長州征伐

4月5日、長州藩の第二奇兵隊が暴走のあげく藩を脱走。

倉敷の代官所を襲うという事件が起こる。

これがきっかけとなり、5月1日に老中小笠原長行は長州藩に最後通牒。

5月29日までに幕府の命令に従わない場合、6月5日に開戦するというものであった。

薩長同盟を始めとして軍艦や銃器の購入など、対幕府戦の準備を終えていた長州は、当然これを拒否。
6月7日、ついに幕府軍は広島、小倉、石見の3路と大島の海路より長州藩攻撃を開始する。
圧倒的な大軍を誇る幕府軍であるが、長州のお取り潰しに同情的になる藩も多く、その戦意は旺盛とは言えなかった。

さらに長州藩の装備や兵制は近代化が進んでおり、少数ながら善戦する。

それどころか、7月2日には大島の幕府海軍を撃退。

石見口の幕府軍を破り、7月18日には幕府の善戦基地浜田城も落城。

長州側の圧倒的優勢に戦いが展開していくのである。
そして7月20日、各地で幕府軍の苦戦が伝えられる中、大阪城で将軍徳川家茂が病没する。
この幕府の敗勢と将軍の死による幕威の失墜を挽回すべく一橋慶喜は、“大討込み”と称して自らが征長軍を行なうと宣言し、8月8日、天皇より節刀を賜る。
ところが12日に、長州藩の攻撃により小倉城が陥落。

小笠原長行が撤退した事を伝えられた慶喜は、大討込みを撤回。勝海舟に長州との和睦を命じる。
8月20日、幕府は将軍家茂の死去を発表。

翌21日には、家茂の死を名目として、征長軍の中止を決定。9月4日、朝廷もまた征長軍の解体を発令するのであった。

幕府の敗北と慶喜の大討込み中止は、決定的に幕府の威信と信用を失わせた。たった一年で、再度、情勢は倒幕側に逆転したのであった。
このような中12月5日、慶喜が徳川慶喜として15代将軍を拝命。

就任早々の27日に、孝明天皇が崩御。

親幕府派だった帝の死は、幕府の運命を象徴しているかのようであった。

大討込み おおうちこみ。幕府による大反撃のこと。言葉としては慶喜が景気の良い言葉を選んだだけの話である。

伊東甲子太郎

18351867

新選組参謀として入隊するも、新選組を分派し御陵衛士を編成する。

新選組を裏切ったとして土方らにより暗殺される。

常陸志筑藩の鈴木家に生まれる。近隣である水戸藩に遊学し、尊皇攘夷思想の洗礼を受けた水戸系の志士である。

北辰一刀流を修め、伊東道場の道場主の娘を娶り、その道場を継ぎ伊東姓を名乗るようになる。

門弟50名を数える伊東道場を背景に、彼は弟子である藤堂の勧誘を受けて、新選組に入隊する。

新選組を分裂させた男として有名な彼であるが、当初から彼は新選組を分裂させる意図をもって入隊したのだろうか? 答えは是である。

しかし、後の御陵衛士は薩摩藩と通じることで成立した組織であるが、入隊時の伊東が気脈を通じていたのは、薩摩藩ではなかった。

水戸系の尊皇攘夷志士である伊東は天狗党を結成する藤田小四郎らと親しく、1864年に挙兵した天狗党に助勢する集会に参加している。

このときは天狗党に参加することはしなかったものの、篠原や服部などの同志らと京都で国事に奔走する意思を固めた集会となったようである。

その頃に、近藤の新選組隊士募集があり、元弟子である藤堂らの誘いを受ける。

彼と面談した近藤も新選組は尊皇攘夷志士の集団であると説いたため、彼は新選組に加盟する。

表立ってはいないものの、新選組を牛耳り幕府内に人脈を築いて同志や友人が多く参加している天狗党に京都より支援する意思はあったろう。

同じ尊皇攘夷の志士であるならば、援護まではいかなくても弁護ぐらいはできるであろうと考えてはいたであろう。

しかし、実際には新選組は幕府による尊皇攘夷志士の弾圧集団であり、近藤も土方も幕府に尽くすことで栄達を狙う人物であった。

それでも伊東は同じ北辰一刀流の同志であり尊皇攘夷思想に篤い山南敬介とともに、少しずつ新選組内に自分の派閥を形成していく。

おそらく当初は新選組内を改革していこうと考えていた伊東であったが、幕府による天狗党の虐殺とそれにともなう山南の切腹により、彼は豹変する。彼は新選組の分裂を構想するようになる。

彼は新選組内部に同志を増やしていくとともに、長州詰問使などに動向し、薩長へと接近していく。

山南切腹の翌年9月には、すでに新選組の路線を巡って近藤や近藤らと激論しており、このときすでに新選組分割が話し合われたという。

そして18671月から3月にかけて九州に遊説し、御陵衛士の構想を説くとともに薩摩藩の支援を取り付けるのである。

そして3月に近藤に正式に新選組分割を承諾させ、御陵衛士を結成する。

その後、京都にいる地の利を活かして精力的に働くが、翌年、新選組によって謀殺されてしまったことでその人物評価が定まらないままである。

ただ彼の建白書には、固陋な思想家ではない明晰な政策立案者の面を見られる。

彼にとって新選組での暗躍のみで語られる運命をたどったのは、不本意であったろう。

伊東の建白書

御陵衛士結成してまもなく伊東は、王政復古を説く建白書を朝廷に提出している。

この中では国民皆兵や海軍創設などを説くとともに開国を薦めており、開国主義者であった彼の側面が見受けられる。

王政復古後の政策では坂本竜馬の船中八策が有名だが、伊藤の建白書も同様の内容であり、当時にあっては常識的な構想だったのだろう。

斉藤一

18441915

明石藩の出身ともされるが定かではない。

副長助勤、三番組隊長を歴任。

おそらく当時よくいた江戸をぶらついていた浪人の一人だったのだろう。

浪士組に参加し、初期から新選組の幹部として働いていることから試衛館にも出入りしていたようだ。

このはっきりしない出自と、戊辰戦争では土方と袂を分かって最後まで会津藩と運命をともにし、また明治後会津藩士の娘と結婚しているなどなにかと会津と縁が深い。

このことから会津藩から新選組を監視する密偵として派遣された人物とも言われる。

しかし、密偵としては幹部としての活躍や、永倉や原田たちとともに近藤に対する建白書を会津藩に提出するなど、その動きが目立ちすぎる。

また正式に軍監として新選組監視を要請されたなら、しかるべき役職が隊内でつけられたであろう。

後に彼が会津藩と運命をともにしたのは、ごく真っ当な武士としての判断である。

当時の命令系統から言えば新選組の主君を会津藩主松平容保とみてもおかしくは無く、主君と運命をともにするのは当然の士道である。

密偵説の証左として伊東とともに御陵衛士に参加し、スパイとして働いたという説もある。

だが、これは元々が近藤たちと折り合いの悪かった斎藤が、伊東の分派に乗ったのが真実である。

伊東たちを裏切ったのは斎藤が御陵衛士の金を使い込んで居たたまれなくなり、近藤の下へ帰参したというのが真相であったようだ。

最近ではダークでニヒルに語られがちな斎藤であるが、その実像は新選組幹部にありがちな金遣いの荒い事以外は、ごく普通の人物であった。

明治後、警視庁の警部を勤め、東京教育博物館書記を経て、晩年は女子高等師範学校の庶務係兼会計係という経歴からも、そんな真っ当な彼の人格が窺える。

斎藤一と試衛館

斎藤一密偵説の根拠に、途中参入なのに幹部となったというのがある。

だが斎藤は明治後、自分の刀について訊ねられたときに「小石川小日向柳町の近藤先生の道場に、遊んでいたころ……」と回想しており、彼が試衛館に出入りしていたことを語っている。

彼が初期から幹部となっていたのも、その縁からであり、彼の剣士としての実力からいっても特に違和感のない人事であったことがわかる。

大村益次郎

1824〜1869

 長州出身。医学・兵学を修め、幕府講武所教授に招聘されるほどの学識を誇る。

後に桂小五郎の勧誘を受け長州藩に帰参し、参謀として第二次長州征伐で長州軍を勝利に導く。

新政府軍では参謀として、彰義隊の戦いなど戊辰戦争を勝利に導く。

刀槍から銃砲の時代へ替わったことを象徴する人物である。

武田観柳斎

?~1867

甲州流軍学の兵学者。斎藤の回想によれば名前も書けない隊士すら多かった中、彼程度の学識でも重宝されたようである。

新選組の軍師として近藤に気に入られるが、隊士には嫌われていた。

後に御陵衛士に参加しようとするが伊東に拒絶され、薩摩藩に身を投じようとして、斎藤らに斬殺される。

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