幕末 ぼくたちの好きな新選組 第十二章 京の守護者~本願寺へ移転、新選組の絶頂期~

第十二章

京の守護者~本願寺へ移転、新選組の絶頂期~

1865年 閏5月11日 新選組に市中警備区域が割り当てられる
7月21日 長州藩、グラバーより兵器購入する
9月22日 幕府に長州征伐の勅許が降る
     11月4日 近藤、永井尚志の長州詰問使に同行

 新選組の正式な警備割り当て

1865年3月10日ごろ、新選組は西本願寺へと屯所を移転する。

それにともない隊士の募集を行い約130名もの大部隊に膨れ上がった新選組に、閏5月11日、幕府は京都市中の警備の効率化をはかり新たな任地を与える

。京都において、京都守護職、京都所司代、京都見廻組、加賀藩、御定番組などに警備区域を割り振り、新選組にも正規の組織同様に警備担当区域が割り振られたのである。

新選組に割り当てられたのは、京都南西部、西本願寺を中心とした区域。

この辞令は、京都守護職や所司代といった幕府の正規の治安組織と新選組を職務上は同等として扱っており、新選組が幕府の組織内で確固たる地位を築きつつある証明でもあった。
この扱いに奮起したか新選組は、閏5月14日に膳所藩士川瀬太宰を捕縛し将軍暗殺計画を未然に防ぐなど、目覚ましい働きを見せている。

おそらく新選組がもっとも活躍した時期であると言えるだろう。

長州の対幕府戦準備

このころ幕府の取り締りの強化に象徴されるように、各地では勤皇派志士たちに対する逆風が吹き荒れていた。

新選組の京都警備割り当てと同日の閏5月11日、土佐藩を率いて、長州藩とともに京都で活躍していた志士、武市瑞山が処断され切腹している。

また、5月16日には第二次長州征伐の指揮をとるべく、将軍徳川家茂が江戸を進発。

そんな情勢の中、長州藩は密かに薩摩藩と接触しようとしていた。

長州藩の桂小五郎は土佐浪士中岡慎太郎を仲介役として、閏5月16日下関で薩摩藩の西郷隆盛と会談を行なおうとした。
結果的にこの会談は失敗に終わるが、同じ土佐浪士坂本竜馬の仲介により薩摩藩は薩摩藩名義での長州藩用の兵器購入を承諾。

幕府の圧力によって海外より武器を購入するルートを持てない長州藩には救いの手であった。
これにより優れた洋式銃器や軍艦を購入できた長州藩は、来るべき幕府との戦いに愁眉を開く。

また、西洋学兵学教授として大村益次郎を迎え、かつての攘夷藩であった長州藩は幕府と戦うために急速に軍備や軍制を西洋式に改めていくのである。

新選組の広島出張

急速に軍備を整え、緊張を高めていく長州藩に対し、幕府は長州藩家老に大阪に出頭するよう命じる

。だが、長州藩はこれを無視。この長州藩の挑戦的な態度に、幕府は9月22日に朝廷より長州征伐の勅許を得る。
こうして臨戦体制を整えながら、幕府は大目付永井尚志を詰問使として送る。

この使者に近藤が同行を要請されている。
11月4日。近藤は伊東甲子太郎、武田観柳斎らを連れて、詰問使の一因として広島に出張。幕府は近藤らを使者という名目で長州藩に潜入させ、その動向を探らせようとしたのである。

しかし、この企ては長州藩の拒絶によって失敗。詰問使も成果を得ることのないまま帰京する。
翌1866年1月27日、再度詰問使が広島入りし、近藤と伊東らも同行する。

今度は伊東や篠原泰之進ら勤皇派隊士が、反幕府的言動を繰り返し、長州藩の共感を得て長州入りを目論んだが、これも失敗。

近藤には伊東らの本音にしか思えず、彼らとの感情的なしこりを残しただけの広島出張となったのであった。

坂本竜馬

1835~1867
土佐藩の郷士として生まれ、勝海舟の知遇を得て神戸海軍操練所の塾頭となり、後に長崎で亀山社中を設立。

薩長同盟の仲介をし、大政奉還の手引きをしたとされ、幕末の風雲児として知られる人物である。
司馬遼太郎の『竜馬が行く』以来、裏表のない性格で幕末を自由に生きた快男児というイメージのある竜馬だが、よく見るとこれほど謎の多い人物もない。
江戸時代とは強固な身分制社会であり、それ以上に藩という社会単位が日本を寸断していた時代である。

一介の浪人であった竜馬が、全国をまわり勝海舟、松平春嶽、西郷隆盛といった要人たちの知遇を受け、亀山社中や海援隊を結成できたというのは不自然な話である。

これを「竜馬がある種の天才であった」からと片付けるのはあくまで小説であって、歴史ではない。
おそらく竜馬は松平春獄を通じて勝海舟と出会い、さらに勝を通じて薩摩藩との人脈を築いたようだ

彼の亀山社中は、会津藩預浪士組である新選組とほぼ同じ立場の薩摩藩御預浪士組とも言うべき組織であった。
薩長同盟も、表立って藩同士の交渉を始める前段階として、薩摩藩の雇われ浪士である竜馬と長州藩における同様の立場であった中岡慎太郎の間で外交折衝が行なわれた末での成立であったろう。

竜馬と中岡が仲立ちしたというよりも、両藩の利益代表として調整折衝を行なったというほうが自然である。

第二次長州征伐でも竜馬は兵器の調達や海戦を率いているが、これも表面上長州の味方はできない薩摩藩の支援策であった。
このように薩摩藩の尖兵として活躍していた竜馬であったが、幕末も押し迫ったころ、薩摩と長州は土佐も倒幕運動に参加させようと、竜馬を工作員として送り込んだ。

そして亀山社中の所属を土佐藩とし、海援隊と名を改める。

やはり故郷が恋しかったが、ここで竜馬は急速に土佐藩に近付き、土壇場で薩長の倒幕策である“倒幕の密勅”を裏切り、大政奉還策を具申してしまう。

結果的に薩長を出し抜いて土佐が倒幕の最後の引き金を引くが、薩摩にとっては飼い犬に手を噛まれたという思いがあったろう。
竜馬暗殺については、新選組や見廻組説などが有力あるが、誰に動機があるか? と考えると武力倒幕の邪魔をされた薩摩と長州にある。

実行犯は別として、その裏にある“殺意”の存在は幕府より薩長が濃厚である。
『竜馬が行く』の幕末の快男児のイメージが強い竜馬であるが、どうもその活躍ぶりや消され様を見ると、快男児というよりも有能なスパイといった姿が浮かび上がる。

亀山社中といったダミーカンパニーを作って、それを交渉の窓口にしたり、人を集める隠蓑ととする手口など、まさに大物スパイそのままだ。
『竜馬が行く』のイメージから離れて見ると、このように中々面白い姿が浮かび上がってくる坂本竜馬という人物。

偏見から離れて見直してみる価値のある“謎の人物”と言える。

竜馬と松平春獄と土佐藩

竜馬は脱藩後、勝海舟の知遇を得て人脈を広げていく。

竜馬は勝を暗殺しにいったわけではなく、福井藩主松平春獄に紹介されて勝と会ったのである。

竜馬と同行したのは、山内容堂の信任篤い土佐藩士間崎哲馬。

そこから竜馬を春獄に紹介したのは山内容堂と考えられる。

これと後に土佐藩に戻る事を考えると竜馬の真の黒幕は山内容堂であったという仮説も成り立つ。

孝明天皇

18311866

121代天皇。

江戸時代最後の天皇である。

幕末という時代はこの天皇によりはじまり、この天皇の崩御とともに終わったという見方もできる。

孝明天皇は16歳のときに即位し、22歳でペリーの来航を迎えている。

ペリー来航と開国の報告のときに彼は幕府に攘夷を求める親書を送る。

しかし、3代将軍家光の時代に起きた紫衣事件で幕府に抵抗した108代天皇後水尾天皇以来、幕府は徹底して天皇の政治的発言の一切を禁じている。

いわば、孝明天皇の攘夷の要請は極めて異例の事態であった。

しかし、幕政改革に必死であった当時の老中阿部正弘は、これを軽くあしらって表面は天皇の要請に応じる姿勢を見せ、実務上で開国政策を進めていく。

 この問題が表面化するのが、一橋派と南紀派に分かれた、将軍継嗣問題である。

この問題で朝廷は“天皇の勅旨”として一橋派を推す密勅を水戸藩に降下する。

時の大老井伊直弼は、安政の大獄を行い、密勅を封じたが天皇の政治的発言を封じることはもはや不可能になっていた。

こうして幕府より上位に立つ存在が、政治的に認知されてしまい、以後長州藩など反幕府勢力による勅旨による幕府への揺さぶりが始まるのである。

 ところが、実は天皇自身は攘夷主義であったが強烈な保守思想の持ち主であり、むしろ攘夷はその保守思想からのものだ。

孝明天皇は生涯を通じて佐幕派であり、彼がもっとも信頼したのは会津藩主松平容保であった。

最初に幕府を揺さぶるきっかけとなった孝明天皇だが、最後の最後に幕府の擁護者となったのもこの天皇であった。

第二次長州征伐に敗れた幕府が、最後の権威の拠り所となったのは皮肉なことに、幕府を最初に揺さぶった孝明天皇の支持であった。

だが、孝明天皇は崩御し、替わって幼少の明治天皇が即位すると途端に倒幕勢力は、倒幕の密勅工作を開始する。

そして、その結果は史実のとおりである。

孝明天皇暗殺説

倒幕において最後の障害となったのが孝明天皇であり、その崩御は倒幕派によって都合がよすぎた。

このため今でも孝明天皇は、岩倉具視や大久保利通によって暗殺されたという説が根強い。

証拠はないが岩倉具視は「あの頃は墓場にもってく話がたくさんある」と発言している。

岩倉具視

1825~1883

当初佐幕派公卿と見られ和宮降嫁の工作に精力的に働く。後に倒幕派に転じ、大久保利通とともに明治天皇を擁立して倒幕の密勅による武力倒幕を画策したと言われる。

この転身は薩摩藩の政治姿勢とほぼ重なっている。

維新後、右大臣として新政府の体制整備に尽力。死後、日本最初の国葬の栄誉を賜った。

中山忠能

18091888

明治天皇の外祖父として岩倉具視とともに倒幕の密勅策に加わる。

彼の子忠光は、倒幕派公卿の一人で禁門の変で長州に落ちた七卿の一人である。

だが忠光は佐幕派長州藩士によって暗殺されている。

倒幕の密勅策のキーマンである彼を、この謀略に参加させたのは、息子への復讐だったのかもしれない。

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