幕末 ぼくたちの好きな新選組 第十一章 山南自刃~新選組の亀裂と動く時代~

第十一章

山南自刃~新選組の亀裂と動く時代~

1864年 1215日 高杉晋作、挙兵。

1865年 1月5日 長州藩、佐幕派と倒幕派で内戦

    2月2日 幕府、天狗党の虐殺を開始

    2月21日 新選組総長、山南敬助隊を脱走

    2月23日 山南敬助、隊規により切腹

    4月18日 幕府、第二次長州征伐を発令

天狗党虐殺の衝撃と山南自刃

年があけて1865年。

70名近い隊士を収容するのに壬生の屯所では手狭になりつつあった新選組は、新たな屯所として西本願寺を選ぶ。

西本願寺は、東本願寺との関係から一貫して反幕勢力を支援してきた寺院である。

幕府はここに新選組を配置して、西本願寺への圧力をかけようとしたのである。

しかし、この屯所移転に反対したのが、新選組総長山南敬助であった。

新選組の中で尊皇思想の強い山南は、かねてより幕府の走狗として同じ志士たちを殺していく新選組のあり方に疑問を抱いていた。

その彼にとって新選組が西本願寺への弾圧機関として屯所を移転するのは耐えがたかったであろう。

2月、幕府は天狗党の処罰を開始する。

2日に武田耕雲斎、藤田小四郎ら幹部25名が切腹すら許されず斬首されたのを皮切りに、353人を斬首。捕虜としての扱いも、真冬の中全裸でニシン蔵に閉じ込めるという凄惨なものであった。

この幕府の残忍な処分に、志士たちは憤激し、倒幕を正義と確信するという結果を生む。

佐幕派にとっても目を覆うような虐殺であり、幕府に対する不信感を助長してしまっただろう。

もちろん、常陸出身である伊東、水戸藩と縁の深い北辰一刀流の山南や藤堂にとっても衝撃は大きかった。

2月21日。山南は隊を脱走する。

間もなく彼は捕らえられ、23日に切腹。

最古参の隊士であり、人望の篤かった山南の脱走と切腹。

それは伊東や山南など新選組は尊皇攘夷の志士であると考える者と、近藤や土方のように武士として幕府の守護者たるべしと考える者たちの亀裂を象徴する事件であったろう。

倒幕勢力長州の復活

長州征伐によってとどめを刺されたかに見えた長州藩であったが、彼らは屈しなかった。

降伏した翌月の18641215日には、すでに高杉晋作が決起する。

そして、1865年の1月5日に、長州征伐の戦後処理によって長州藩の主流を占めていた佐幕派の軍を破り、2月には再び尊皇派の高杉らが長州藩の主導権を取り戻してしまうのである。

そして4月には蛤御門の戦い以来、行方不明となっていた桂小五郎が長州に帰還し、藩内の取りまとめに入る。

降伏から半年も経たないうちに長州は再び反幕府、いや倒幕勢力として復活を遂げる。

この長州藩の動きを幕府は察知し、4月18日、2度目の長州征伐を発令する。

新選組のさらなる増強

この第二次長州征伐を受けて、新選組はさらなる戦力増強をしている。

江戸に残っていた藤堂が、関東各地で隊士の募集を行い、4月27日には50数名の隊士を伴って入京している。

これを合わせて新選組は130名もの隊士を抱えることになる。

これを土方は再編成し、組長1名、2名の伍長、隊士約10名からなる10番組に分けた。

新選組の編成としてよく知られる編成がこの時期の編成である。

ちなみに130人という動員兵力は、すでに一万石の大名にも匹敵する数字であり、堂々たる一勢力と呼べるものであった。

一介の多摩の道場主が、大名並みの兵力を有する事が許され、幕府もそれを頼りにする。まさに乱世ならではの構図であった。

※東西の本願寺 幕府設立当初、幕府は東本願寺を建立して本願寺の勢力分裂を画策した。このため伝統的に東本願寺は幕府寄り、西本願寺は反幕府が強い。

山南敬助

1833~1865

近藤の試衛館時代からの仲間であり、新選組では総長として、常にナンバー2の立場にあった人物である。
新選組を幕末青春グラフィティ的に見ているファンにとって、山南の切腹は不可解なものでしかないであろう。

近藤らと長らく“友情”を交わしてきていた山南が、屯所移転といったちょっとした対立で脱走を企て、切腹を命じられるというのは、山南の行動も切腹を命じた近藤や土方の行動も理解できまい。
実は武家社会というのは強固や縦割り社会であり、横の繋がりというものはほとんど存在しなかった社会である。

友情という概念も明治以降のものである。

当時の武士たちの本分はただひとつ“忠義を尽くすこと”であり、それは幕末でも変わらない。

ただその対象が主君だけではなく、天皇であったり、思想であったりしただけの話であり、現代社会に生きる我々とはまったく精神構造が違う。
山南にとっては北辰一刀流とともに学んだ尊皇攘夷思想こそが、彼の“忠”の対象である。

確かに近藤らとの付き合いは長かったが、武士としてそれは些細な私事に過ぎない。

彼は尊皇攘夷思想に忠義を尽くすと自ら決めた者であり、近藤らとの付き合いは私情として斬り捨てるべきものであったのだ。
山南は北辰一刀流を通じて水戸学派の志士であり、思想としては芹沢派に近い。

芹沢の粛清後、山南と同志である藤堂は孤立してしまい、派閥の強化を迫られる。

その結果、彼らは伊東甲子太郎の加入を画策し、新選組における水戸系派閥の強化するのである。

近藤との付き合いは別として、一橋派である近藤や試衛館派と芹沢より連綿と続く水戸系志士との争いは新選組内部の潮流として最後まで続いた派閥争いなのである。
伊東の加盟後、ようやく山南たちの水戸系の派閥は近藤たちとの均衡が取れる、とほっと一息ついたであろう。

しかし、一橋慶喜は水戸系志士の中心的存在である天狗党の虐殺を行なう。

このとき、山南は完全に幕府と一橋慶喜、そして彼らに連なる近藤らを見限った。
しかし、当時は幕府優勢の情勢にあり、近藤たちに叛旗を翻しても勝ち目も立場もなかった。

その末に彼が選択したのが新選組脱走と切腹であるが、この行動は黙って静かに新選組分裂を画策した伊東よりも恨み深いものが感じられる。

付き合いが長いだけに、安政の大獄や天狗党虐殺などを行なう暴虐なる幕府に尻尾を振る近藤や土方に対する抗議が、彼の行動に繋がったのであろう。

山南が尊皇攘夷思想に忠義を尽くすに当たって、幕府やその走狗と化した新選組と同じ空気を吸うつもりはなかったに違いない。
山南は穏やかな知識人であり、その優しい人格で多くの隊士から慕われていた。

それだけに当初は尊皇攘夷の志のままに上京した自分たちが殿村や芹沢を謀殺し、天狗党を虐殺するような幕府に尻尾をふる集団となっていたことが許せず、また隊士たちに警鐘を鳴らしたかったのであろう。

むしろ彼が同志たちを集め近藤たちの暗殺や、集団脱走、新選組分割を企てるような真似をしなかった態度こそ、近藤たちにたいする友誼と穏やか知識人としての節度が窺える行動であったと言える。

山南の呼び名

山南敬介はどうも“さんなん”と呼ばれていたことが多く、“やまなみ”という呼び名は、むしろマイナーであったらしい。

藤田小四郎

18421865

水戸藩士。水戸藩の尊皇攘夷思想の重鎮藤田東湖の子である。

水戸藩の郷校制度の中で、勤皇派藩士たちの代表として、水戸藩の改革を訴える。

後に天狗党を結成し、武田耕雲斎とともに筑波において挙兵。

その数は2000名にのぼる。

攘夷決行を訴えるべく、京都に上ろうとするが、幕府軍の攻撃を受けて潰滅。捕らえられ、352名の同志とともに斬殺される。

新選組関係の書物でも新選組と水戸系志士たちの繋がりを描いたものは少ないが、初代局長である芹沢鴨、総長である山南敬助、参謀である伊東甲子太郎など新選組の幹部に水戸系志士は数多い。

別の見方をすれば、新選組の派閥抗争史は、試衛館一派と水戸系志士たちの抗争史であるとさえ言える。

そのような新選組内部においても、天狗党の鎮圧と幕府による352名ものの虐殺は大きな衝撃であった。

実際のところ、近藤と土方主導でまとまりかけていた新選組が、この事件以降、山南の脱走から御陵衛士の結成まで完全に二派分裂状態が続く。

352人もの人間が、しかも武士階級の者が切腹も許されず殺されるというのは、幕府史上にも類を見ない。

大塩平八郎の乱で750名が処刑されたとあるが、これは遠島などの処分を含めた数であり、死刑とされたのは40

。さらに安政の大獄でも死刑となったのは8名であり、いかに突出した数なのかが理解できるだろう。

元々、水戸藩と縁の深かった新選組の隊士特に伊東や山南などは藤田小四郎の友人であり、なおさら衝撃は大きかったであろう。

この虐殺劇後、新選組は辛うじてあった「幕府を助けて尊皇攘夷を貫く」という大義名分を失い、同時に思想的な隊士たちは山南のように脱走を企てるか、伊東とともに分派を画策していくのである。

藤田小四郎と桂小五郎

天狗党の決起は水戸の勤皇党の単独での暴発ではなかった。

藤田小四郎は桂小五郎と親しく、天狗党の結成にあたり長州より資金提供を受けている。

当時、京都を牛耳っていた長州による、幕府のお膝元である関東を揺さぶる戦略の一貫でもあったようである。

一橋慶喜が、過激なまでに残酷な処分を行なったのも、この長州の謀略が地方に波及することを恐れてのものだった。

武田耕雲斎

1803~1865

水戸藩家老。

徳川斉昭や藤田東湖とともに水戸の藩政改革を行なった人物であり、改革派の藩士の一人である。

斉昭の死後、保守派により水戸を追放され、藤田らの結成した天狗党の首領となる。

一橋慶喜と面識があり、彼を頼っての挙兵だったが、天狗党の挙兵をもっとも憎んだのは、他ならぬ慶喜自身であった。

高杉晋作

18391867

長州藩士。幕末が生んだ革命の申し子。

第一次長州征伐により佐幕派が政権を握った長州を、再び勤皇党に奪い返し、さらに第二次長州征伐では幕府の総司令部である小倉城を陥落させるなど、長州の危機を何度も救う。

静の桂と動の高杉により長州は幕末を戦い抜けたという見方すらできるであろう。

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