幕末 ぼくたちの好きな新選組 第十章 尊皇と佐幕と~伊東甲子太郎一派入隊~

第十章

尊皇と佐幕と~伊東甲子太郎一派入隊~

1864年  8月1日 幕府長州征伐を発令
 8月5日 四ヶ国艦隊、下関を攻撃
 10月6日 近藤、隊士募集のため江戸に帰還
 11月1日 幕府軍長州藩領を包囲
 11月18日 長州藩、幕府に降伏
 12月17日 天狗党、幕府に降伏

 幕府の威信回復

京都での戦いに敗れた長州であったが、彼らには更なる苦難が降りかかる。

8月5日、長州の攘夷行動によって被害を受けた英、仏、米、蘭の4カ国が下関の砲撃を開始する。

この戦いに敗れた長州は、高杉晋作の機転によって攘夷は幕命によって行なったと主張し、賠償と領土の割譲を免れる。

だが、すでに8月1日に幕府は長州征伐の号令を発令。

尾張藩主徳川慶勝を司令官とし、蛤御門の戦いで名を挙げた西郷を参謀とした征長軍は、11月には広島に進軍。長州藩を包囲する。
京都と下関の戦いで戦力のほとんどを失っていた長州は、11月18日、幕府軍に降伏。

京都戦争の責任をとり三人の家老が切腹。

西郷のとりなしや戦争での犠牲や出費を嫌った各藩の意向もあって、長州の処分はこれにとどまるのである。
これに続いて幕府は12月5日、千人もの勢力に膨れ上がった天狗党を福井藩に命じて討伐させる。

12月17日、諸藩の3万の軍勢に包囲された、天狗党は降伏を余儀なくされる。
長州を取り潰せなかったものの、昨年まで跳梁跋扈していた反幕府勢力の大部分を鎮圧し、京都の朝廷も完全に掌握した1864年は、幕府にとって政権回復の確かな手ごたえのあった年になった。

ちなみにこの年の9月、幕府は慶喜と春嶽が政権の座についたときに廃止していた参勤交代の復活を発令している。

幕府の威信回復への自信が伺える政策と言えるだろう。

伊東甲子太郎の加入

この頃、新選組は8月15日に将軍家茂より池田屋の変や蛤御門の戦いでの功績によって感状を贈られている。

これによって京都の治安維持組織として、新選組が幕府内で確固たる地位を築いたと言ってもよいだろう。
幕府内での評価と期待に、近藤と土方は更なる戦力の増強の必要性を痛感する。

先の蛤御門の戦いでも、兵力不足を痛感させられた上、新選組と名を変えてから隊士の脱走や粛清が相次いでおり、結成当初より戦力が激減していたという事情があった。

また、来るべき長州征伐でさらなる戦功を挙げるためにも、隊士の増強は急務であった。
近藤の「武士は板東武者に限る」という主義もあり、彼らは京都・大阪で募集をかけるとともに、近藤自ら江戸に帰還し隊士の増員を図ったのである。
ここで新たに新選組に加わったのが、伊東甲子太郎とその一派である。

常陸国出身の彼は、北辰一刀流の道場主であり、同門のよしみで藤堂と面識があった。

近藤は藤堂の伝手で伊東の新選組加入を要請したのである。

その剣名とともに、学者としても尊皇攘夷の志士としても著名な人物であった。

彼の新選組加入は、戦力の増強とともに、昨今の「結成当初の尊皇攘夷の志を失い、幕府の走狗となった」という新選組に対する内外の評価を払拭する効果もあったのである。

そのためもあり、彼は単なる新隊士でなく、いきなり二番組の長として遇されている。
伊東らの一派8名を中心に近藤は約20名の隊士を集めて京都に帰還、京都・大阪では十数名の隊士が募集され、新選組は67名を数える組織となった。
結局、新選組の長州征伐参戦はなかったが、土方は厳しい軍律を定めた「軍中法度」を発令し、さらなる隊内の規律を固めていくのである。

局中法度書

 一、士道ニ背ク間敷事
 一、局ト脱スルヲ不レ許
 一、勝手ニ金策致不レ可
 一、私ノ闘争ヲ不レ可

  右条々相背候者切腹申付ベク候也。

軍中法度

 一、役所を堅く相守り式法を乱すべからず。進退組頭の下知に随ふ可き事。
 一、敵味方強弱の批評一切停止の事。
    付、奇嬌妖怪不思議を申すべからず。
 一、食物一切美味禁制の事。
 一、昼夜に限らず急変有レ之候とも決して騒動致すべからす。心静かに身を堅め下知を待つべき事。
 一、私の遺恨ありとも陣中に於て喧嘩口論仕間敷事。
 一、出勢前に兵糧を食ひ、鎧一縮して槍太刀の目釘心付べき事。
 一、組頭討死に及び候時、其組衆其場に於て戦死を遂ぐべし。若し臆病を構へ其虎口逃来る輩於二有之一は、斬罪徴罪其品に随て可申渡之
    候。予て覚悟、未練の働無レ之様相嗜べき事。
 一、烈敷虎口に於て組頭の外屍骸引退く事為さず、始終其場を逃げず忠義を抽ずべき事。
 一、合戦勝利後乱取禁制也。其御下知於レ有レ之は定式の如く御法を守るべき事。

  右之条々堅固に相守るべし。此旨執達仍而如レ件。

伊東甲子太郎

1835~1867
新選組参謀として入隊するも、新選組を分派し御陵衛士を編成する。

新選組を裏切ったとして土方らにより暗殺される。
常陸志筑藩の鈴木家に生まれる。近隣である水戸藩に遊学し、尊皇攘夷思想の洗礼を受けた水戸系の志士である。

北辰一刀流を修め、伊東道場の道場主の娘を娶り、その道場を継ぎ伊東姓を名乗るようになる。門弟50名を数える伊東道場を背景に、彼は弟子である藤堂の勧誘を受けて、新選組に入隊する。
新選組を分裂させた男として有名な彼であるが、当初から彼は新選組を分裂させる意図をもって入隊したのだろうか? 答えは是である。

しかし、後の御陵衛士は薩摩藩と通じることで成立した組織であるが、入隊時の伊東が気脈を通じていたのは、薩摩藩ではなかった。
水戸系の尊皇攘夷志士である伊東は天狗党を結成する藤田小四郎らと親しく、1864年に挙兵した天狗党に助勢する集会に参加している。

このときは天狗党に参加することはしなかったものの、篠原や服部などの同志らと京都で国事に奔走する意思を固めた集会となったようである。
その頃に、近藤の新選組隊士募集があり、元弟子である藤堂らの誘いを受け、彼と面談した近藤も新選組は尊皇攘夷志士の集団であると説いた。

そのため彼は新選組に加盟する。表立ってはいないものの、新選組を牛耳り幕府内に人脈を築いて同志や友人が多く参加している天狗党に京都より支援する意思はあったろう。

同じ尊皇攘夷の志士であるならば、援護まではいかなくても弁護ぐらいはできるであろうと考えてはいたであろう。
しかし、実際には新選組は幕府による尊皇攘夷志士の弾圧集団であり、近藤も土方も幕府に尽くすことで栄達を狙う人物であった。

それでも伊東は同じ北辰一刀流の同志であり尊皇攘夷思想に篤い山南敬介とともに、少しずつ新選組内に自分の派閥を形成していく。

おそらく当初は新選組内を改革していこうと考えていた伊東であったが、幕府による天狗党の虐殺とそれにともなう山南の切腹により、彼は豹変する。

彼は新選組の分裂を構想するようになる。
彼は新選組内部に同志を増やしていくとともに、長州詰問使などに動向し、薩長へと接近していく。

山南切腹の翌年9月には、すでに新選組の路線を巡って近藤や近藤らと激論しており、このときすでに新選組分割が話し合われたという。
そして1867年1月から3月にかけて九州に遊説し、御陵衛士の構想を説くとともに薩摩藩の支援を取り付けるのである。

そして3月に近藤に正式に新選組分割を承諾させ、御陵衛士を結成するのである。

その後、京都にいる地の利を活かして精力的に働くが、翌年、新選組によって謀殺されてしまったことでその人物評価が定まらないままである。

ただ彼の建白書には、固陋な思想家ではない明晰な政策立案者の面を見られる。

彼にとって新選組での暗躍のみで語られる運命をたどったのは、不本意であったろう。

伊東の建白書

御陵衛士結成してまもなく伊東は、王政復古を説く建白書を朝廷に提出している。

この中では国民皆兵や海軍創設などを説くとともに開国を薦めており、開国主義者であった彼の側面が見受けられる。

王政復古後の政策では坂本竜馬の船中八策が有名だが、伊藤の建白書も同様の内容であり、当時にあって常識的な構想だったのだろう。

藤堂平助

1844~1867
新選組初期からの隊士であり幹部として副長助勤、八番組隊長などを勤めた。

生まれも育ちも江戸の、生粋の江戸っ子であり、伊勢津藩藤堂家のご落胤という説もある。
藤堂は千葉道場にて北辰一刀流を学び目録を得ている。

一説には伊東道場で北辰一刀流を学んだとされるが、後の彼の進退から見て、同門としてどちらの道場にも出入りしていたのだろう。

実は彼と試衛館の繋がりについての記録はなく、彼が近藤たちと行動をともにする記録があるのは、江戸での浪士組募集で同じ組に入れられた後である。

とはいえ、こちらも同門の山南を通じて試衛館に出入りしていたのであろう。
彼は新選組初期隊士として、幹部として活躍。常に先頭に立って戦うので“魁先生とも言われた”。

池田屋の変でも真っ先に突撃し、名誉の負傷を遂げている。

このように新選組の主要幹部であった彼だが、彼は山南、芹沢と並んで水戸系の志士であり試衛館一派とは距離があった。
それが明らかになるのが伊東甲子太郎一派の加入からである。

芹沢の死後、山南と藤堂だけで孤立していた彼らは、伊東らとともに新選組内に水戸系志士の派閥が復活し、完全に伊東のために働くようになる。

おそらく伊東の加入も藤堂の勧誘あってのことであったろう。
後に彼は新選組を脱退し、伊東とともに御陵衛士を結成する。

新選組ファンは、これにより彼も油小路での横死を遂げることになったことを惜しむ。

近藤や永倉たちが、油小路で彼を逃がそうとしたとの記録もあり、さも藤堂の本意が新選組にあったようなイメージがあるが、彼は元々が水戸系に連なる尊皇攘夷思想の志士であることを考えると、御陵衛士として死ぬのは新選組として死ぬより本望だったのではないだろうか。

最年少隊士 藤堂平助

藤堂平助は沖田総司とともに最年少隊士である。

彼が浪士組に参入したのは数えで20歳のときであり、彼の人気の源泉ともなっている。

ただ、15歳前後で成人とされる当時の20歳は、立派な大人として扱われる年齢である。

司馬遼太郎以来、現代の年齢に当て嵌めて新選組や志士たちを青春扱いする風潮があるが、彼らにとっては失礼千万な扱いだろう。

篠原秦之進

1828~1911

伊東甲子太郎とともに新選組に加入し、伊東の補佐役。油小路の戦いを逃れ、近藤を狙撃し負傷させているまでが有名。

だが、維新後、赤報隊に身を投じ、「偽官軍」として投獄される。

釈放後、戊辰戦争で東北を転戦。明治後、久留米藩の以来で西洋の最新式砲の試作をするなど、波乱万丈の生涯を送っている。

富山弥兵衛

1837~1868

薩摩藩の間者として、伊東の口利きで加入。

伊東の学識に傾倒し、御陵衛士に。油小路では激闘の末に薩摩藩に保護される。新政府軍の一員として転戦。

越後で探索を命じられるが、水戸諸生党と交戦となり斬られる。

だが、その激闘ぶりで「薩州藩賊後世諸士ノ亀鑑大丈夫の士也」と敵に称えられた。

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