幕末 ぼくたちの好きな新選組 第九章 新選組の台頭~長州迎撃戦~

第九章

新選組の台頭~長州迎撃戦~

1864年 6月15日 長州藩兵、国許を進発

6月27日 長州藩兵、山崎、伏見を占拠

7月17日 長州征伐の詔勅が諸藩に下される

7月19日 蛤御門の変

7月20日 六角獄の虐殺

追い詰められる長州

池田屋で闘死あるいは捕縛された志士たちは、肥後の宮部鼎三、長州の吉田稔麿を始めとして、当時の京都における志士の首魁とも言うべき者たちであった。

彼らを討たれた事により、志士たちは京都において組織だった動きを封じられる。

池田屋での新選組の働きによって、長州は事実上京都を失陥したと言ってもよかった。

さらに三十名もの同志が斬殺されたことにより、長州藩の藩士たちの世論も沸騰する。

かくなる上は出兵し、武力をもって京都を占拠し、帝に直接、長州藩の正統を陳情すべし。

血と鉄の規律

池田屋の変において勇名を轟かせた新選組であるが、勇戦した隊士がいた反面、約50名のうち20数名が病欠や非番などで参戦を見合わせている。

大部分が実戦を恐れたための仮病であり、結成当初の新選組の規律とはこの程度のものであった。

ここで新選組副長土方は、徹底した隊規の引き締めにかかる。

これまで有名無実であった「局中法度」を厳しく適用し、隊内の引き締めを図った。

元々、新選組は土方によって組織そのものは強固に編成されており、これに厳しい隊規と、池田屋での武名があいまって、新選組は鉄の規律を持った武力集団へと生まれ変わっていく。

蛤御門の戦い

6月15日。長州藩はついに暴発し出兵。27日には山崎、伏見に進出する。

この時点ではあくまで長州藩復権と攘夷決行の陳情であったが、軍をもって京に臨み朝廷を脅迫している事実はかわらない。

しばらく、長州藩は京に突入するか否か、幕府側は長州を討つか否かで議論が分かれるが、717日ついに幕府は長州討伐を決意。

長州を賊軍とすべく、朝廷より長州征討の詔勅を受けての行動であった。

しかし、戦闘そのものの機先を制したのは長州であった。

彼らは賊軍の汚名を晴らすべく、京に突入。

彼らの勢いは当初幕府軍を圧倒し、7月19日には御所の蛤御門に到達する。

この長州の勢いに朝廷は動揺、「長州を許せ」と公家たちが騒ぎ立てるが、これを総指揮官である徳川慶喜が抑える一方で蛤御門には幕軍最強の薩摩と会津藩を送り、これを死守させる。

蛤御門の戦闘は薩摩の西郷隆盛の指揮によって大きく幕府側に傾く。

長州は数的不利の中奮戦するも、指揮官来島又兵衛が戦死すると一気に敗走する。

かくして長州藩は破れ、国許へと撤退する。

この戦いにより逆賊と指定された長州は、藩士すら京都に入るりを許されず、長州藩士であるというだけで斬殺してよい存在となるのである。

この戦いで新選組は鷹司邸内の長州兵と戦っている。

また戦後、天王山に駐屯する志士たちの討伐も命じられるが、到着時にはすでに全員が自害していた。

蛤御門の長州と幕府側の戦いは京都全域を巻き込んだ戦いとなった。

この戦いで家屋28000戸が焼失したと言われる。

新選組は戦後の長州の残党狩りに活躍し、その血塗られた印象を一掃強めていく。

また六角獄に投獄されていた平野国臣らの政治犯数十名の虐殺を命じられ実行している。

幕府はこの戦いで京都における主導権を完全に確立する過程で、汚れ仕事を新選組に一任していた感がある。

徳川慶喜

1837-1913
徳川幕府15代将軍。

最後の将軍として大政奉還を実施し、旧政府の首脳である彼が新政府に恭順し続けたことにより最小限の犠牲で明治維新を成し遂げられたと評価される。
幕末、井伊直弼の暗殺以後、大政奉還に至るまで幕府における政局を事実上握っていたのが慶喜である。

彼の政治姿勢は開国と幕府、あるいは徳川家の存続と一貫していた。

しかし、そのために敵味方の区別なく犠牲を強いたため、彼の政治手腕には未だに評価が分かれる。
彼は確かに辣腕といってもよい政治家であったろう。

将軍後見職に就いてすぐ、長州など反幕勢力が牛耳る京都に乗り込み、徹底的に長州派公卿の陰謀を回避し、後に禁門の政変などで京都を粛清して幕府の威信を回復した手腕は見事である。

その後、長州征伐の失敗で幕府に見切りをつけ大政奉還を行い、さらに徹底して徳川家を滅ぼそうとした薩長に対して恭順を貫き、彼らを肩透かしさせて戊辰戦争を最小限に抑えた見切りも並の政治家とは言えないだろう。
しかし、彼に対して賛否が分かれるのは、彼の政治姿勢が常に敵味方に犠牲を強いることで成り立っていた所にある。

彼の母藩である水戸藩は、当初は武田耕雲斎らのはからいで一橋家に藩士を貸し出しするなど協力姿勢にあった。

しかし、天狗党の乱などで水戸系志士が反幕勢力となるや、彼は江戸期でも類をみない虐殺を行なっている。

戊辰戦争でも鳥羽伏見の戦後も、あくまで徹底抗戦を貫こうとする幕臣を見捨て、会津桑名両藩主を人質にして江戸へ遁走。

江戸で恭順姿勢を打ち出すや否や会津桑名藩主たちを見捨てる。

新選組もまた、彼の恭順姿勢の邪魔になるからと江戸を追われたという犠牲者の一人だろう。
確かに彼の手腕によって、幕府は一度は威信を回復できた。

そして維新後の国内戦争も最低限に抑えられた。

大を生かすために小を殺すという姿勢を、これほど明確に行なった政治家も日本史上では珍しいであろう。
冷徹というよりも冷酷という言葉が似合う慶喜の政治姿勢でだが、しかし現代の感覚で彼を断罪はできないだろう。

水戸藩主徳川斉昭と皇族の出である正室の間に生まれた根っからの貴人である慶喜は、そのように教育され自らを律してきたのであるから。

彼は自分の政策を実行するにあたって配下が犠牲になるのは当然であると思っていただろうし、また配下もそれを喜びとするのは当然だと考えていた。

それが武家の忠義というものであり、またそれが当時の武士としての誇りであった。
そう考えると慶喜の周囲にあって彼の政策の犠牲になってきた者たちが、無能な旗本たちなどではなく、松平容保や新選組、武田耕雲斎、平岡円四郎といった有能かつ忠義にあふれた人物ばかりというのも理解できる。

彼は配下に死地ともなるような働き場を与えるのが主君の役割と心得ていたのだから。
とはいえ犠牲になる側とすればたまったものではないだろうが。

慶喜の側近

慶喜が重用する側近はとにかくよく死ぬ。

最初の側近である中根長十郎を始めとして、平岡円四郎、原市之進と、全て暗殺されている。

中根は慶喜を開国主義に惑わす奸臣として、平岡は慶喜の進める公武合体政策の黒幕として尊皇攘夷志士に殺されている。

原は慶喜の大政奉還に反対する幕臣に暗殺されており、いずれも慶喜の政治姿勢によるものであった。

西郷隆盛

1827~1877
薩摩藩士。

薩摩藩において絶大な人望を持ち、事実上幕末における薩摩藩の指導者として活躍した。

維新三傑の筆頭でもあり、幕末の倒幕勢力から新政府を通じて、薩長における最重要人物とされる。

後に新政府と袂を分かち、薩摩士族を率いて西南戦争を起こし敗れ、自刃する。

しばしば、豪放磊落な九州男児、薩摩っぽの典型として描かれる西郷であるが、その実像は正反対である。

幕末の薩摩藩において、彼ほど繊細な人格を持っていた人物も少なく、むしろ人情や時勢に極端なまでに敏感であった。

他に人材がいなかったために否応無しに薩摩藩の指導者となってはいたが、彼の本領は参謀あるいは補佐役であったようである。
そもそも彼が島津斉彬に見出されたのも、その緻密な頭脳と理解力を愛されたからである。

さらに彼は第一次長州征伐でも徳川慶勝の参謀として、事実上の幕府軍の采配をしている。

彼としても、こういった補佐役や参謀役としての役割のほうが働きやすかったようでもある。
ともあれ、優れた参謀役としての頭脳を持ち合わせていた彼は、禁門の政変での会津の提携から薩長同盟、そして維新に至るまで、巧みに立ち回りすぎて憎まれるほどに時勢を読みきって薩摩藩を導いている。
薩摩藩は大久保利通が謀略を担当し、人望を西郷が集めたと解釈されているが、実際は大久保は藩主久光の操縦役で、謀略家としては西郷のほうが数段上であった。

むしろ大久保の本領は維新後の国家経営にあり、むしろ謀略は苦手としていた。
こうして薩摩藩の参謀役として活躍した西郷だが、維新後、彼自身が薩摩、そして新政府の頭領となると、途端に精彩を失う。

世上のイメージとは違い、彼は人の上に立つよりも、参謀役や補佐役として動く方が性にあっていたのだろう。

彼の西南戦争での無策ぶりは、性に合わぬ地位に置かれた彼の、せめてもの抵抗ではなかっただろうか。

上野の西郷像

西郷と言えば上野の西郷像のイメージが大きいが、彼の未亡人は除幕式でこの像を見たとき「似てない」と呟いたという。世間の評価と実像がかけ離れていた証拠かもしれない。なお、この除幕式が、日本における最初の“除幕式”でもあった。

大久保利通

1830~1878

西郷と並ぶ維新三傑の一人。

維新後の彼の国家経営や、その無私と決断力を思うと、むしろ九州男児の剛毅さは西郷より大久保に典型が求められる。

東京遷都、版籍奉還、廃藩置県、警察の創設など、日本を中央集権国家とする政策を、ほとんど独断に近い権限で作り上げた。

近代日本という国の基礎を作った人物である。

中村半次郎

1838〜1877

やはり九州男児の典型として、剛毅さと優しさ、そして示現流の剣士“人斬り半次郎”として有名だ。

しかし、その実像は西郷と同じように、繊細緻密な頭脳の持ち主であり、西郷の謀略における連絡・諜報担当として活躍している。

彼が後に桐野利秋として立身したのは、人斬りではなくこの方面の功績からだ。

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