幕末 ぼくたちの好きな新選組 第三章 血煙は江戸から京へ~京都の動乱~

第三章

血煙は江戸から京へ~京都の動乱~

1862年

115日 坂下門外の変

7月6日 一橋慶喜、将軍後見職就任

7月8日 松平春嶽、政治総裁職就任

閏8月1日 松平容保、京都守護職就任

1215日 一橋慶喜、京都に入る

1224日 松平容保率いる会津藩兵千名入京

 公武合体政策の明暗

井伊の暗殺以後、一気に時代は加速していく。井伊に続いて政権を握った安藤信正は、一つの政策を打ち出す。

公武合体。幕府と朝廷が共同歩調を歩み、国難に対するという政策である。

もはや、井朝廷の影響力を排除する井伊のような政策では、国内をまとめる事ができなくなっていた。

この政策にもとづき、幕府は将軍徳川家茂と皇女和宮との婚儀を申し入れる。

だが、すでに和宮には許婚がおり、幕府による皇女強奪と受け止められた。

これに対し朝廷は幕府に和宮を降嫁する代わりに、攘夷の断行を要求するのである。これを安藤は請けたのだが、これが幕府にとっては致命的な言質となる。

以後、攘夷という言論と行動は幕府・朝廷の公認の正義という事になるが、すでに外交として開国政策を行なっており、軍事的にも経済的にも列強国の強大さを知っている幕府が攘夷断行など行なえる筈もなかった。

 反幕勢力の勃興

この時期、水戸、薩摩に続いて国政への参与に積極的に乗り出したのが長州藩である。

当初長州藩は長井雅樂の提唱する航海遠略策による公武合体論という開国佐幕寄りの政策掲げていた。

しかし、井伊によって斬首させられた吉田松陰門下生たちが藩内の実権を握ると、長井は失脚させられ、一変して最大の反幕勢力となっていくのである。

彼らは朝廷の公家たちを操り、前述した安藤の言質を最大限に利用し、幕府に攘夷断行を迫る事で圧力をかけたのである。

もちろん、一度開国した幕府が攘夷を行なうなど外交上も軍事上も、できるわけがない。

これは反幕勢力による幕府を外国と朝廷の板ばさみにして、大いに揺さぶる政略であった。

同時に彼らは浪士たちに資金を与え、開国派や親幕的な論者や安政の大獄の関係者たちに無差別に近いテロを行なわせて、京都を中心に政情不安を煽る。

この政情不安と国内外からの圧力に窮した幕府は7月、将軍後見役として一橋慶喜、政治総裁職として松平春嶽を抜擢する。

彼らは二人とも、かつての“一橋派”として西国雄藩の藩主たちの同志であった人物である。

これは反幕勢力である薩長土の藩主たちに、彼らが顔が利く事を期待されての人事であった。

幕府の反撃の狼煙

この時期の薩長土の朝廷工作は、完全に幕府を無視して、京都に新政府を樹立する勢いであった。

9月18日には三藩主による攘夷断行の建白書を朝廷に提出。1012日には朝廷に親兵の設置を提案している。

この薩長土の政治工作に対して、慶喜と春嶽は一刻も早く京都と朝廷を抑える事が必要だと判断する。

彼らは就任してすぐに、親藩最強と評価される会津藩を京都の抑えとして動員する事を計画。会津藩主松平容保を京都守護職に任命する。

そして1215日には慶喜自らが京都に入り、朝廷内を抑えるロビー活動を開始。24日には容保率いる会津藩兵千名が京都に駐屯するのである。

国内世論の中心である京都と、もはや幕府以上の権威を獲得している朝廷を抑える事は幕府にとっても、反幕勢力にとっても最大の焦点となっていったのである。

政治の中心は江戸から京都へ完全に移行していた。

 もう一つの政府、朝廷

桜田門外の変は、端的に徳川政権の弱体化を内外に露呈する事となった。と、同時にこれら一連の政争において、俄然注目を浴びた存在がある。

京の朝廷である。

もともと当時唯一の日本の通史であった大日本史に基く、尊皇史観が社会的に常識になりつつあった。

この思想が政治的に利用されるようになったのが、阿部正弘の死後の政変においてである。

阿部の路線を引き継ごうとした後任の老中、堀田正睦は日米通商条約の勅許を得られなかったとして失脚する。

当時の尊皇攘夷的世論の影響のみならず、反阿部勢力である徳川官僚の動きもあった。

つまり朝廷の権威をもって幕府の政治に関与させるという政略が、これより成り立つようになっていく。

以後、一橋派と南紀派の争いでは、水戸と薩摩が勅許により一橋慶喜を将軍位に就けようとするなど、幕府内の政略に朝廷は積極的に利用されていく。

このため必然的に朝廷の権威は肥大化し、幕府に対する影響力を世論に認められていくようになっていくのである。

反政府テロの典型

幕府を動かす二つの力。

それが朝廷とテロリズムであった。

これを積極的に活用して幕府に揺さぶりをかけようとしたのが長州藩である。

元々、水戸や薩摩が行なってきた朝廷工作やテロは、あくまで幕府内の政治抗争にすぎなかった。

元々が反幕勢力であったが、一連の政争に出遅れた長州は、幕府内部の勢力ではなく、朝廷を担ぐ事で幕府そのものを揺さぶる政略に出たのである。

その手口の変遷を見ると面白い。元来水戸や薩摩が行なってきたテロは、桜田門外や坂下門外における要人暗殺であり、明確な政治的用途が伺える。

ところが京都で長州の藩士や彼らの資金援助を受けた浪士たちが行なったのは、無差別テロによる治安悪化と社会騒擾を狙ったものであった。

これに武市瑞山ら土佐の勤皇党などが加わり、ほぼ京都は無政府状態と化していく。

身も蓋もない言い方をしよう。

この当時の勤皇派の行動原理は、水戸や薩摩のように、幕府内部へ食い込む事に出遅れた長州や土佐の失地回復に過ぎない。

政府とは別の権威を担ぎつつ、テロで社会不安を煽り、政府を揺さぶる手法はごく典型的な反政府テロリズムの手口であり、この時代の場合もそれ以上でも以下でもない。

 幕府の反撃

このような状況下において、安政の大獄による失脚を解かれた一橋慶喜が将軍後見職に、越前福井の松平春嶽が政治総裁職に就任する。

彼らが真っ先に行なったのは、京都の治安の快復と朝廷を押さえる事であったのはごく当然であった。

そのために彼はもっとも将軍家への忠誠心の高い藩である会津の松平容保を京都守護職に任命するのである。

容保もその藩士たちも、尊皇攘夷で狂乱する京都や朝廷を“死地”とわかっていながらの就任であったという。

反幕勢力である長州と土佐、勤皇色は強いが幕府側である水戸と一橋と薩摩、そして佐幕勢力である徳川官僚や会津。

その後の歴史は、ほぼ彼らによって動かされていくことになる。

松平容保 18351893

会津藩9代藩主。

京都守護職として、幕末の動乱の中心地であった京都の治安を守り続けた人物である。

京都守護職御預という身分で発足した新選組にとっては、直属の上司にあたる。

京都の治安維持とは、長州を中心とする反幕テロリストたちの取り締りと同義であり、多くの反幕府勢力の志士たちを粛清している。

そのため、長州や薩摩などの反幕府勢力にとっては幕府の強権の象徴的存在と目されるようになる。

だが、彼の政治姿勢は基本的に穏健派であった。

彼の存在が幕府内部で注目されるようになったのも、井伊直弼暗殺後、幕府内で水戸藩討伐の声があがる中、あくまで武力征伐に反対し、その処置を巡る建白書を将軍家茂に提出したのがきっかけである。

京都守護職を拝命したときも、最後まで固持しており、彼は幕府が武力や強権をもって体制を維持しようとする姿勢には、あくまで反対していたようである。

だが、時の将軍後見役であり、後の十五代将軍慶喜は、国内屈指の武力と教育水準を持った最強の藩である会津藩の武力とその忠誠心を徹底的に利用し尽くした。

将軍後見役の時には容保に京都守護職として反幕府勢力の弾圧をさせ、将軍となった後は大政奉還後の絶対恭順の姿勢を容保と会津藩を犠牲にする事で成し遂げた。

幕府としての最後の抵抗とも言える鳥羽伏見の戦いの後、容保を拉致同然に江戸に連れ帰り、抗戦派最強勢力である会津藩の動きを封じている。

さらに江戸に帰った後は容保と会津藩を見捨てて、新政府の矛先をそちらに向けさせている。まさに慶喜のスケープゴートにされてしまった感がある。

と、こう書くと容保や会津藩が“歴史の被害者”とされたように思えるが、それは容保と会津藩士にとっての侮辱であろう。

彼らは藩祖保科正之が定めた家訓の第一条「大君の義、一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例をもって自ら処するべからず。若し二心を懐かば則ち我子孫にあらず、面々決して従うべからず」を忠実に守ったのである。

彼らは自分たちの忠義として、幕末には将軍家のために戦い、戊辰戦争において将軍家や江戸が受ける筈であった戦禍を一身に受け、維新後も本来の敵である筈の将軍家に替わって過酷な戦後処理を引き受けたのである。

そして、松平容保という人物は誰よりもそんな“会津士魂”に忠実であったが故に、最後まで会津藩士たちの心を引き続けてこれたのであろう。

彼は自らの選択をおそらく後悔はしていなかっだろう。

もう一度同じ時代が来たとしても、同じ選択をしたに違いない。

だが、ひとつだけ彼が恨むとすれば、維新後彼と会津藩が賊軍とされた事だ。

彼は生涯、彼を信頼し続けていた孝明天皇の宸翰を身につけていたという。

薩長のようなにわか勤皇ではなく、代々が神道を奉じていた勤皇の家系であった容保にとって、維新における賊名だけが耐えがたい屈辱であったに違いない。

会津藩の教育

幕末の会津藩には長州の高杉晋作や薩摩の大久保利通や西郷隆盛といった天才は登場しない。

しかし、それこそが会津藩の誇りであろう。

会津藩は教育の盛んな藩であり、什という幼少教育組織や日新館などで、古くからその教育水準の高さに定評があった。

会津藩では天才は必要とはされなかったのだ。

もし、別な時代に“幕末”が来たとしても、薩長はともかく会津藩だけは同じ活躍ができたであろう。

島津斉彬 1809~1858

 薩摩藩藩主。幕末の開明派大名の筆頭とも言うべき人物であり、外様藩の藩主ながら阿部正弘らとともに幕政改革に携わる。

彼の師とも言うべき蘭癖大名島津重豪の薫陶もあり、いち早く西欧文明を藩内に取り入れ、精錬所や溶鉱炉を築き、機械制工業を興した。

これにより薩摩は洋式帆船や蒸気船などを建造するほどの工業力を持っただけでなく、陶磁器やガラスなどの製品を産出する、一大工業立国として成立するのである。

斉彬の政策により薩摩は一足先に文明開化を迎え、その国力によって幕末における幕府最大の対抗勢力となっていく。

また斉彬は人材眼にも優れており、下級藩士であった西郷隆盛をはじめ、多数の人材を発掘している。

また下級旗本だった勝海舟を見出したのも斉彬である。まさに幕末最大の開明派藩主といってもよい人物だろう。

斉彬は外様大名ながら老中阿部正弘と組み幕府内の改革に参入する。

阿部と斉彬は、西国の雄藩を取り込むとともに大奥、水戸藩などを取り込んだ連立政権を構想していた。

その結実として、一橋慶喜の将軍就任と開国が成立していれば、阿部正弘と斉彬のコンビによる幕政改革はほぼ完成していたであろう。

しかし、阿部が突如急死し、幕府内の政治勢力図は一気に塗り替えられてしまう。

阿部という幕府内での支柱を失った斉彬は、それでも朝廷を動かすことで幕政改革を成し遂げようとする。

実際、斉彬は京都に藩兵を出し、朝廷の権威による幕府改革を構想していた。

しかし、阿部の死の1年後彼も病死してしまう。

どうも、相次ぐ阿部と彼の“都合よすぎる”急死に不透明なものが漂うと感じるのは筆者だけだろうか?

薩摩切子と島津斉彬

島津斉彬の殖産興業政策のひとつ薩摩切子というガラス工芸がある。このガラス工芸は薩摩焼きとともに薩摩の工芸品の傑作と言われる。

しかし、斉彬の死後、薩摩切子の工場は縮小され、薩英戦争で向上が破壊され、幻の工芸となる。

今でもその意匠は工芸として評価が高い。斉彬の殖産興業によって興り、その死とともに消えた薩摩切子の輝きは、

まるで斉彬の政治のように、一瞬のきらめきで終わってしまい、後世に惜しまれるものとなったのであった。

松平春嶽 1828~1890

越前藩主。幕末の開明派藩主の一人で、一橋慶喜とともに政治総裁職として幕府を最後まで支え続けた。

明治維新後、彼は徳川家存続に尽力し、それを見届けると明治3年に一切の官職を辞して文筆生活を送る。

勤皇派の藩主でもあったが、その進退は最後まで徳川家のためにあった事はあまり知られていない。

西郷頼母 18301864

会津藩筆頭家老。松平容保の京都守護職就任に最後まで反対し、再三にわたって辞任を求めた。

会津藩の京都守護職就任は、藩の誰にとっても苦渋の選択であった。

戊辰戦争で降伏恭順を進言するが受け入れられず、使者の名目で城外に出される。

米沢、仙台を経て五稜郭まで至り、最後まで新政府に抵抗を続けた。

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